臨時国会の閉幕
参議院選後の臨時国会が8日間の会期で閉幕した。ねじれ国会と言われたが、何がどうねじれて、ねじれた結果何かが変わったのかと見ていたが。全く不活発な国会と言うだけだった。参院選結果に大きな影響があったという、消費税についても、税制改革の方向性、日本の経済のかじ取りについても、実質的な議論が行われるようには見えなかった。民主党も自民党も消費税10%なのだから、争点も何もない。唐突に現われて消えた。普天間基地の移設の場合は、沖縄知事選が終わるまで先送りという、意味不明の選択がされた。民主党内の権力抗争がいくらか目立った動き。管氏は野党にいて、攻撃的立場にあった時は、立ち位置も明確で主張もあった。しかし、総理になったがために、何も出来ないようだ。この無力感の影響は大きい。一方国際的な核廃絶に向けた動きに対し、日本政府も揺らぎながらも、一定の前進を見せた気がしている。。
日本社会の崩壊的現象の表れは、この間相次いで表面化した。お年寄りの生存確認問題。家族の崩壊というような、長寿をただ喜べない現実が浮かび上がってきた。国民年金保険の納付率が60%を割った深刻な現状。払いたくても払えない状況もあるし、払ったところで仕方がないという、社会や政府に対する不信。ワーキングプアーと呼ばれる、月々10万円程度の収入で、生活保護者以下のものが日本の全世帯の10%とまで言われている。その大きな原因は非正規雇用とされ、雇用されている人の3分の1、1600万人。自分の周辺でいえば、農家を含めた、地域を支えた自営業者の廃業。最低賃金以下で働いてきたの農業者や自営業者の廃業。社会の調整をしてきた分野が、競争の激化し受け皿機能が崩壊した。さらに農業の受け皿である、建設業は仕事が無くなっている。頑張っても報われない社会が確定してきた。民主党へチェンジした最後の希望も、日に日に色あせて行く。
政治に求めても、何もしてくれないということをしみじみ感じさせられたチェンジ。社会崩壊の予兆を前にした、臨時国会の姿は政治の無力を象徴している。戦後の高度成長期は社会の持つ上昇する勢いに、つられるように一人一人は受け身であったとしても、多くにとって生活は水準的には良く変わっていった。そして、価値観がいつの間にか、拝金主義一色になってしまった。やりたい仕事というより、金になる仕事にまい進した。農業でいえば、田んぼが好きだから、田んぼをやるということは無くなった。生きる原点が、儲かるか儲からないかの話だけになり、生産過剰だから、お米は作ってはならないという政府の方針。勤勉とか、精一杯働くとかいう、農家の倫理を裏切る、働かなければお金になるという矛盾。減反に協力すれば、戸別保障を上げますよ。こういう枠組みである。
精一杯好きな仕事をすることが、人間の生きる目的ではないだろうか。金にならないからと言って、ゴッホは絵を描くことをやめられなかった。こうした、正義のバランスを取るのが、政治の本来の役割である。もちろん実業がそれだけではないのはわかるが、自給率が40%の社会での減反である。政治による調整能力が、おかしくなり何かが機能しなくなっているとしか思えない。他の求めることなく、つまり自分のこととして、自分の解答を求めて動いてゆく以外にないという現状。気になるのは、政治の無力化に応じて、テレビ報道が、いつの間にか社会を支配しているような空気。世論調査という武器を使い、政治を動かしている。