東アジアの日本
日本が東アジアに存在し、そのすべてと言っていいほどを、中国や朝鮮から学んだ。これが日本だな、日本的だな、と思うものまで、やはり中国の影響なのかと知って驚くことがある。たとえば日本の里山的風景など、日本以外の何物でもない姿だと思っていたが、実はほとんどが学んだものだった。少し残念な気もするが、当然と言えば当然のことである。日本がまだ弥生時代であり、稲作が徐々に広がってゆく時代。すでに中国には大国家が存在した。しかも中国の古代帝国は科学技術においてもきわめて先進的で、農業においてはほぼ現代の基本となる形を作り上げている。特に水田稲作に伴う灌漑法には、先駆的な試みがなされていた。当然それを学んだということである。よくぞ教えてくれたものである。日本で栽培されるほとんどの作物が、中国から伝来したもので、その栽培法も同時に伝わった。
陸稲稲作はすでに5000年前からあるが、水稲栽培という、生産性の高く永続性のある方法は、長江中流域で栽培が始まったとほぼ確定してきている。中国4000年の永続農業と言われる。1000年が経過して、水の管理が可能となる3000年前のことである。これが日本に入るには、大した時間がかかっていない。あっという間に、それこそ数百年で九州北部に到達。それが、500年もすると、小田原中里遺跡にまで到達する。こうした先進技術の渡来文化を、日本民族は受けるいる事はすぐれていた。この受容能力の高さが、日本人ということなのかもしれない。縄文の遺物をみるとまるで日本人の感性ではない。大胆で奔放で、南方的な解放感がある。原始民族共通と言えばそうなのだが、農耕的民族ではない。この縄文人が先進技術稲作を携えた、弥生人と混在しながら、日本人が形成されてゆくイメージがある。日本民族とは何であるのかという原点は、この稲作を始める事で、形成されてきたと言える。
稲作に伴う大規模な水土技術を、渡来人から学びながら、国家を形成して行く。当初稲作は水のある低湿地で、洪水などの被害を受けながら行われていた。水田は徐々に増加し、人口も増加して行く。奈良時代に入るころには、国家的富の所有の形態が明確化する。米はすでに租税としての役割を担い、。競うように水田開発がおこなわれ、水管理の難しい、低湿地より、河川の山際にある後背湿地や、谷戸田が作られるようになる。その意味では、久野に水田が始まったのは、4~500年のころなのかもしれない。長くより大きい水路を作る技術が徐々に形成され、それに伴い、水田が広がる。この水土技術は、先端技術であり、天皇を中心とした国家管理であっただろうと思われる。それはコメが貨幣であるということとも、経済であるということ。
日本らしさという繊細な美しさは、江戸時代に磨きあげられてゆく。鎖国、幕藩体制の中で、人口の増加とそれに伴う、新田開発。『里地・里山・里川・里山』すべての自然が人間が手入れをすることで、循環する形を作り上げて行く。この徹底した自然とのかかわり方が、日本民族ならではの美しさを形成する。棚田の美しさということはアジア全域に存在する。しかし、極めて総合的に山から川から海までも手入れを行いながら、自然に寄り添い犯さず汚さず、神聖さを保ちながら、暮らしてゆく姿。これは安定した国家が、何千年と続いた平和のおかげである。そのような幸運は他にはないと言える。一つの暮らし方を突き詰め、徹底して磨きあげる事が出来た。いま日本人は先ばかり見て、本来持っていた資質を忘れかけている。田んぼの水管理の一工夫が、実は暮らしのすべてと言ってもいい。