水彩人12回展

   

水彩人12回展が開かれる。まだ先だが、今年11月に銀座シンワアートミュージアムで開催される。先日そのための準備会があった。ちょうど、北海道展の絵が戻ってきていたので、自分の今の状態を考える上でとても良かった。実は少しづつ、絵が変わってきている。意識的にどうこうしようというわけではないのだが、少し強くなってきている。強くとは、色彩的にも筆触の上でもそういうことなのだが、絵そのものが強い方向に動いている。それは少しづつのことではあったのだが、11回展あたりから、そういう傾向が出てきていた。もちろんそのことは偶然というより意図的なことである。ただあまりに一枚一枚では、わずかな変化だったので、見にくかっただけだ。それが、北海道展あたりで、かなりの変化になっていた。考えてみれば、これは戻ったということである。20ぐらいの時に書いていた絵に近付いている。不思議なものだ。

フランスで描いていた時も、その後も長いこと原色の絵を描いていた。そしてその絵は色が悪い絵だと繰り返し言われていた。人に受け入れられるような絵ではなかったし。人のことなどどうでもよかったし、自分のことで精一杯であった。受け入れてほしいというようなおもねりが大嫌いな、傲慢な絵であった。そのころは油か、アクリルで描いていた。絵が変わったのは、山北に移った30後半になってである。水彩画しか描きたくなくなった。色も柔らかくなった。日本の自然を描くようになったて、少しづつ変わっていった。色がいいなどと言われるようになった。それまでも人に受け入れられる色というのが、どういうものかは知っていた。しかし、それが自分の本質の方角と少しつがうので、あえて避けていた。私が絵を描くものは、自己主張だからどぎつかったのである。

しかし、山北の山の中に暮らすようになって、だいぶ変わった。多分、と言うしかないのだが、人に受け入れられる絵を描くようになった。遠慮なく感じの良いあいまいな色を使うようになった。グレーならグレーの傾向の絵という調子になった。それは春日部洋さんの指導を受けるようになったということもあるのかもしれない。一緒に絵を描きに行くことが多かった。それ以上に、受け入れられたくなったということがある。農の会もそうなのだが、山の中に暮らして、仙人のようにと言うのでなく、かえって、社会と自分の関係を考えるようになった。孤立感の中で暮らしているので、連帯を求めたという、情けないけどそう云う事実だと思う。一人で、自給自足を求めて開墾をやっている時が、一番自分から人に近付こうという気持ちが芽生えた時期のようだ。とすると色が強くなったというのはどういうことなのだろう。

隠居したからではないか。後は好きにやろうと決めたからではないだろうか。60で還暦。また子供のころに戻るというのは、あるようだ。そういう意味では1歳の誕生日が近付いているのだが、この一年の変化は大きかったかもしれない。水彩連盟も除名されて、寂しさもあるが、良かった。すべてを孤独の中に戻して、自分の絵を探求しろということだ。実にありがたいことだった。お前などいらない。こういわれるのは、情けない辛いことだけど、本当の絵を描くにはとても大切なことでもある。本来どこにどう立っていても、人間はそうでなければならないのだが、弱いもので、大樹の陰で遠吠えしているようなことになりがちである。水彩人12回展は新生のための展覧会である。偶然にも第一回展を開催した場所に戻ったというのも、偶然ながら不思議なめぐり合わせである。あの頃は日動ギャラリーから、変わったばかりであったが、画廊の方も2転3転している。

昨日の自給作業:田の草取り1時間 累計時間:30時間

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