見るという学習
見ると言う事は、学んで蓄積して初めて可能になる。このことは絵を描く上でとても重要な要素だ。芸術分野で際立った天才が現れるのは、この学ぶと言う子供時代の体験の差による。例えば、3歳まで見る事が出来なかった人には、その後の学習だけでは物の立体の認識に差が出るらしい。3歳で失明し、43歳で見えるようになった方の事例では、見えているのに見えないという不思議な状態が起きたという。視覚としては、視野に写る。しかし、その写っているものを見ていると理解が出来ないらしい。そうした一定期間見えなかった人の、研究で見えると言う事は、実は能の中に蓄積されている情報操作であることが分かる。この蓄積は、1歳児にしか出来ない蓄積。2歳児にしか出来ない蓄積。3歳から6歳の期間でないと出来ない蓄積。色々違いがあることが分かっている。たぶんモーツアルトのような天才中の天才は、聴覚の情報蓄積が際立った人だったのだろう。視覚的蓄積についてもそういう違いがあることが、感じられる。
これは、努力とか、技術とか、そういう物とはまったく関係の無い根本のことだ。がっかりしてしまうような、ある種冷たい科学的事実である。要するにだめなものは努力してもだめ、と言うような話で情けない。だめな絵がいけないのかと言う居直りはある。絵画において見る能力は成人してから学ぶことは、ほとんどと言うか、正直に言えばまったくない。見えていないものがいまさら見方を学んだ所で、意味がないことになる。否私だって見えている。こう思う人もいるかもしれないが、何万色の識別。何万段階の諧調の識別。そういう機械的な眼の能力差もある。それだけならまだいい。そのことの意味をとらえる情報蓄積してきた能力の違いが、決定的に大きい。見ていて見えない経験をしたことがある。ランチュウの稚魚の頭の煙だ。「こいつは良くなるよ。頭が煙っているだろう。」名人には見えている煙が見えない。名人には努力ではなれないことを覚悟した。見えないのだからどうにも仕方がない。
一日公園で鳴く鳥を聞いていて、楽譜で再現が出来る。こう言う才能ならハッキリしているが、困るのは見えていると言う事だ。見えると言う事を誰でも同じ能力だと思い込んでいる。見るという学習が殆どないような人には、絵を描くと言う事が理屈だけになる。こうした人が絵を描くと、ただ再現を目的にしたような、絵とは言えない様な事に熱中する。またそうした絵を見て大半の、見る蓄積のない人には見えるように描かれていると思い込む。これはとても差別的な言い方であるが、正直言えばそう言う事にならざる得ない。自分は見えているぞ。こう言う事を言っているのではない。自分が本当に見えていることでやるしかない。こう言いたいのだ。だめを知り。だめでどこが悪いのか。絵画と言うのは、天才だけの事ではない。だめな絵を承知で描く。こう言う事こそ自分のやりたいことだと思っている。一番やりたくないことは、自分の眼では見えていないことなのに、天才が見た見方の蓄積を移し変えるような作業だ。
絵を描く意味の方が変わったのだと思う。絵画の社会的役割は、芸術作品として社会に影響を与えるものでなく、描く事で自己探求し、自己を深め、自己を確立する。他人の介在しない、内向的なものになってきている。絵画芸術の伝達性の衰退。もし自分が幼児であるなら、1歳児であるなら、やることは山ほどある。目を充分に使うこと。自然の多様性を見たい。若葉が日に日に変化していく様を、充分に目に焼き付けたい。朝日ののぼる空の色の変化を、何度も見たい。山や平野の広がる大空間と一体になりたい。そうして、この多様さが混乱としてでなく、頭の中の情報の記憶にしっかりと整理してゆきたい。そうして、葉の色一つで、土の中の世界まで見えるようになりたい。海のいろが変った事で、海の中で起きている全ての事がわかるようになりたい。見ると言う事は、自分そのものだ。