泥窯焼き作品展開催

   

笹村展示室に泥窯焼きの作品を並べた。様々な鉢が生き物になって主張している。上手いとか下手とかそういうものを越えた、領域群になっているのがとてもいい。壁には笹村の水彩画がそのまま展示してある。150号が3点。中版全紙が3点。泥窯焼きのものが、40点ほど。ある意味でのコラボレーション展である。自分が描いている意味が、少しわかる。なんとも、ありがたいことである。泥窯焼きは、作家である兼藤さんも、小学生のTさんも少しも変らない。ものとしての存在感はどちらの方がすばらしいと言うような事がない。そういうと、兼藤さんにまったく申し訳ないのだが、もちろん兼藤さんの作品が、誰よりもいわゆる造形物として、傑出しているのは当たり前のことなのだが、そういう作家的意図を超えた、土を焼くということによって、噴出して来るようなエネルギーが作品にこもっている。「物魂」とでも名付けたくなるような、何ものかが立ち現れる。

昨日見た目に焼きついたような、まえだゆうきさんの作品にも「物魂」があった。一方、阿部尊美さんの作品は、観念をもてあそんだような、否悪く言っているわけではなく。観念の究極のような作品である。それはイメージであり、「物魂」がない。阿部さんのものにも、立体作品はある。それなのに、映像的なのだ。映像でも同じであるような、意味的な展開なのだ。ひるがえって、陶芸と言う手法は、モノ派てきなのだ。物と言う実在、土と言う物質感。純粋に物であります。と言う主張が前面を覆う。しかも、泥窯焼きでは、様々な衣装を捨てざる得ない。小賢しい作戦はまったく、通用しないことになる。そこが清々して良い。いわば、絵で言えば素描である。素描であるのだが、物と言う大きな存在感をになう素描。絵の方の素描は、逃げ込もうと思えば、観念にも、イメージにも、工芸美にも、逃げ場はある。

そう松田正平の素描である。ごまかしようの無い松田正平がそこにいた。そこがすごい。油彩画においては、やりやすい所で勝負している感がある。日本的情緒での味付け。最近、若い作家も案外にこの流れの作品に、便乗している。強い色を使わない。グレートーンで、マチュエールに凝る。回顧的で、嫌味がない。夕焼け小焼け的で、トイレの名画と私は密かに呼んでいる。松田正平氏の危うい側面である。昨日の美術館主人は何故、梅原龍三郎や中川一政ほど松田正平が著名でないかと、嘆いていたが、それは、松田正平が楽な所で仕事をしているかだろう。梅原龍三郎は、あの強烈な色と味も素っ気も無い筆触で、逃れる所なく戦っているのだ。正面での戦いが展開されているのだ。マチスと同じなのだ。いい気分に逃れようとすれば、自然調である。ナチュラルである。ここで、松田正平は一段格が落ちる。では、同じ国画会で格が高いのは、小林邦氏である。この人の作品はすごい。それこそ世間的には既に、消えてしまった。

小林邦氏は松本の作家である。こういういい作家が何故埋もれてゆくのか。それが今の日本の文化の弱さである。そのことは別にして置かないと長くなる。実は、私の絵の事である。並べて驚くのはひどいものである。これではどうしようもない。偉そうな事など何もいえない、どうにもならないがここで踏ん張って、やれる所までやるしかない。そういう覚悟をしろと、今のままではどうしようもないですよと、展示室では絵に言われる。これは良かった。いま、神田日照美術館での水彩人展に出す作品を書いている。100号のたて作品である。私の家の上から、西の方角を見た景色である。畑の景色である。畑はいいものである。耕すものとして、畑を描ければと思っている。そういえば、神田日照は農民画家といわれている。

 - 水彩画