描き初めと書初め

   


石楠花の家からの景色をデッサンした。少し大きく描いた見たいと思っている。本当の「書初め」の方は暮れから正月と何枚も書いている。正月飾りを作っていたら、稲筆が作りたくなって正月飾りの方は、途中で任せてしまった。それでも稲刈りをして、稲束にした。何故今頃稲刈り家というと、家に作った小さな田んぼの稲が、そのまま置いておいたら、どうなるかと思い観察を続けていた。11月の末まで緑だった。暮れになっても枯れて倒れるようなこともなく、何故かスズメやネズミも食べなかった。我が家のボス猫の「りん」がしょっちゅう見回っているので、守られている。最近ネズミも全く見なくなった。稲束をハザ掛けにした姿はとてもいい。それをそのまま素朴に飾った正月飾りにしたかった。なかなか良い姿のものになった。写真を載せたいのだが、写真を二枚載せる技術がないので、素描の方にした。

稲筆の作り方は至極簡単である。稲藁から稲穂の付いた軸だけを残し、その他の葉っぱなどを取り除く。太い筆なら一束全部揃えても言い。穂の先を揃えるように並べたら、そのまま束ねる。束ねたら、軸をしっかりした糸で巻いてゆく。この巻いた所が筆の軸になるので、持ちやすいように綺麗にしっかりと巻く。これで基本は出来上がりである。しかし、穂先には好みがあるだろうから、先を切りそろえるもよし。先の方まで糸で巻いて、細く仕上げるのもいい。どうせなら大きな字が書きたいので、太目にした。太めにすると広がるから、ゴム輪でまとめて、蒸気で癖をつけた。正月飾りの流れで筆を作ってしまったので、正月準備中断の「書締め」になってしまった。書には字がある。何という字を書いても良いのだが、好きな文字や言葉もある。教訓じみた言葉を書くのは性に合わない。仲良き事は〇〇〇。なにやら、もっともらしくて恥ずかしくなる。激突とか、突破とか、須田刻太氏の書く言葉は素晴しい。

絵は言葉はないのだが、実は描いている風景であれ、抽象であれ、「華厳」とか書いているのと何も変わらない。描くと書くの違いのだけである。書を始めると、何故かすぐ字を忘れる。人、とか大ぐらいの小学2年生ぐらいまではいいが、「風」「草」と書きたいのだが、かぜの中がどうなっているかは丸でわからなくなる。草の下の方に行けば怪しい事になる。だからまず、デッサンをする。書の方が下書きがいるのだ。これは気取っているのではなく、実際であるが他の人がどうかは知らない。中川一政氏は自分の名前を書くのに、鉛筆で下書きをした。それが絵に成ると、下書きいらない。その時の流れで、ぐんぐん変化してゆく。絵なら風と書こうと思って、中の虫と書くところが、早という字に成っても、何の不思議もない。赤い屋根の家のつもりが、水槽になったりする。冂に早とかいて、風草と読むわけにはいかない。字は不便だ。この不便が字を書く面白さのような気がする。

実はその年賀状にした素描を描いた場所を、大きな絵にしてみようと考えて居る。年賀状を一枚一枚水彩で360枚も描いてみた。それなりに面白い。そうして繰り返している内に、大きな絵にしたくなった。どんな風に変わるのかは分からないが、描いてみたくなった。それで始めたのが、描き初めである。和紙で描いてみているもの、ファブリアーノの大きいもので描くもの。インドの水彩紙で描いてみているもの。とても手こずっている。現場で、モルドメードのファブリアーノでも描いて見たくなっている。いまだかつてないもの。自分の描いた事もないような絵を描きてみたい。自分の中で眠っている、溜まってきた、新たなもの。そういうものが、吹き出てくるような絵が描きたい。年賀状を描いたものはいくらか返信用にあります。欲しい方がいたら、発送しますのでメールを下さい。味噌の仕込み募集の方にアドレスがあります。

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