公平な分配
分け前をどうするか。世の中が上手く行く一番大切なことだと思う。資本主義とか、共産主義とか言っても、要するに分け方に行き着く。「働けるものは働らき、必要なものが必要なものをとる。」このように教えてくれたのは、Iさんである。こうできるかは別にして、こう在りたいと誰もが思うだろう。自給の田んぼぐらい、こうありたいでやって見たい。「お風呂のお湯をかき寄せても、増えやしない。」これは松下幸之助氏の言葉として、中学1年生の時に本巣先生から教わった。。「相手にお湯を押しやったとしても、自分の所が減るわけではない。」確か対語のように、なっていた。「始める前に分け前を議論するな。」これは私の実践訓である。分け前から出発して、不愉快なものになった事例を山ほど見てきた。もう一つある。「自分の半分は相手の丁度」それ位人間は自分本位であると言う実感。分け前がやる前から心配なような人には、見事な分け方は出来ない。
以前、自給の田んぼの仲間が、分け前のお米を売ってしまったことがある。これは、食べる必要以上のものを分け前としてもらったと言う事なのだろう。余るくらいなら、足りない人に上げた方が、自給の精神に適う。あくまで自給の田んぼである。どれだけ食べても人間1石150キロ。わたしの一石は60キロという所。江戸時代の人の4分の1しか働けないのだから、辻褄が合っている。労働時間にして、100時間にはならない。「働かざるもの食うべからず。」歳をとって動きが弱くなったら、水周りと。苗運びぐらいになるだろうか。自給というのはあくまで一人の自給に始まる。他人の分まで、家族の分までと成ると、違う話になる。それは業につながってくる。だって年寄りが居る。子供が居る。年寄りだって、こどもだって、働ける所で働いたほうがい良い。「散歩をしている人にご苦労さんとは言わない。」これは、Takeさんの言葉である。自分が楽しいからやっていると言うのが、全てであると言う事だろう。
実は田んぼをやらしてもらっていて、絵を描いているのとまるで同じだと思う。私が絵を描いるということは、どこまでも自分の事である。ただ描きたいから描いている。田んぼをやれると言う事ほどありがたいことがない。私にとって大切なことは、自分流の農法の田んぼがやれると言う事がおもしろい。田んぼの実験にみんなが協力してくれる。「ソバカス抑草」がなかなか効果がある。こう言う事に興味があるので、実験を続けたいのだが、その為には2反以上の田んぼでないと、実証的な成果が少ない。その昔は自給の2畝の田んぼをやっていたのだが。このレベルの実験では、本当の所が見えない。家庭菜園をやっていて、有機野菜の栽培は可能だと言うのと、農家レベルで可能と言うのは異なる。もちろん小さいからできるという意味はとても大切で、その価値は別にある。小さく多様であると言う事が、自然の成り立ちには重要な要素となる。
今年の舟原田んぼは9家族が113キロの分け前。中途参加の1家族が55キロ。手伝ってくれた人のお礼が36キロ。残りが種籾や地主さんのお礼。費用は地代や農の会の機械使用、セルトレーの購入費を含めて、2反5畝の田んぼ全体で10万円くらい。100時間の労働と、1万円で。113キロのお米。ありがたいことと思っている。感謝だけである。この仕組みは、やりたいと思う人には誰にでもできる。田んぼで働く事が好きな人ならできる。これを義務だと思う人には、難しいだろう。世の中にはもっと「率のよい、割に合う仕事」があると考えてしまうだろう。農の会でもこのわけ方は10の田んぼで、10通りある。成り立って居ると言う事は、そこの分け前の方法がそこの仲間に良いからだろう。だから、舟原田んぼのやり方は一例に過ぎない。1例であるが、普遍性もあると思っている。