見学と研修

   

笹村農鶏園は火曜日の午後見学を行っている。ほぼ毎週どなたかが見える。鳥インフルエンザが国内で流行して居る時は、見学を休止したが、小田原に移って10年続けてきた。鶏を飼っている人、飼う予定の人が対象である。自給的生活に関心がある人の体験も行っている。興味半分で来てもらっても、時間の無駄になるからお断りする。美味しい卵が欲しいとか言う人もお断りしている。もちろん、卵を購入している人は、自分の養鶏場なので、いつでも来てもらってかまわない。ときどきは外国からの見学者もいる。韓国、フィリピン、タイ。の方が来てくれている。中国には自然養鶏の指導にも行ったが、見には来ていない。自然養鶏には国境がない。自然に則して養鶏を行えば、世界各国同じことになる。見学より踏み込んだ形で、研修というものも、行ってきた。20名ぐらいだろうか。見学にしろ、研修にしろ、実際に養鶏や農業を私と同じにやる、というのが方針である。

今も、研修に見えているが、なかなか大変そうである。いつも思うのだが、体力が落ちている。江戸時代から見ると、四分の1の体力が私である。その私の半分ぐらいが、今の若者の一般的体力のようだ。体力と言っても、スポーツ能力というのとは違った、農業を実践する体力というものがある。以前、オリザ農園でときどき研修生といっしょに食事をした。食べながら寝てしまう研修生が居た。体力の限界に達しているのだ。オリザの窪川さんは体力があるほうではなかった。その窪川さんがあきれるほど、体力がない人が多かった。農的生活ぐうたらそうで良さそうだけど、体力で躓く人が多いいのが現実である。除草剤を使うなという人には、是否夏の田んぼの草取りをやってもらいたい。「草取りを、1週間出来てからものを言え。」とつい、暴言を吐く。自分が出来ない事を、想像力欠乏のまま、人に要求して欲しくない。下手な農業体験などやると、まるで田んぼをやったような気に成って、かえって農業を誤解することになる。

見学でも出来るだけ、いっしょに働いてもらう。出来ないなりに重い桶を持ってもらう。身体が体験しなければ、見たことにはならない。見ると言う事は、実は難しいものなのだ。絵を描いているとそう言う事は良く分かる。同じ景色を描いても、同じものを見ているわけでもない。見る事の深さがまるで違う。水を見て描く。水に触れたことのないものがみる視覚的水では、見ているのはその実像の僅かな側面に過ぎない。水で泳ぎ、水を飲み、水の存在の自分の命とのつながりを実感し、水の宇宙的意味まで理解した時、水が描けるかも知れない。水を映像として写すことで、自足しているものの見方の浅さ。そう言う事は、絵を見るとすぐ分かる事だ。これは、描く人間の深さと言う事で、深く描けるものは、深く見えているという前提がある。見学も、そうした全てにつながる、深く見ると言う事を知ってもらいたい。

見る難しさは、その人の目で見る。と言う事にならなければならないところにある。私の見方を押し付けることは簡単であるが。私の見方は、あくまで私にとって意味があるので、それを押し付けるのでは既に宗教である。その人が、自分のやり方を発想できるようになることが目的のはずだ。正直、農業のカリスマのほとんどはエセ宗教者という雰囲気がある。自分の個別の体験を真理のごとく、断定する。これでは次にやる人が自分でで考えると言う事にならない。こうした所で、研修している若者を見ると、いかにも視野が狭められている。農業体験は知的なものである。あくまで科学に基づいていなければならない。科学性がなければ、苦行のようなものになる。こちらにしても、説明して意味が通らないのは困る。公開し、見学を受け入れてきて、段々に整理されてきたと思う。出来るだけ長く、見学研修は続けてゆくつもりだ。

 - 自然養鶏