机を作る
机は時どき作る。一番簡単な家具。要するに天板を作り、足の上に乗せる。ともかく板というか木がが好きで、不思議な板を見るとつい欲しくなる。欲しい板はケヤキに限る。これも理由は判らないが、様々銘木はあるだろうが、他の木にはさして惹かれない。木目がどうだというのも興味がない。純粋にドカンとしたケヤキの重量感に引き付けられてしまう。マザートリーというものがあるらしいので、ケヤキがそうなのだろうと思っている。古い農家の庭等に、巨木がある。あれを見るととても安心した気持ちになる。大きな茅葺屋根も安心するが、ケヤキの大木の下にいると、実にゆったりとした気持ちになる。それが材になっていても、同じような安心な気持ちが続く。その安心な感じを身近に感じていられるようなものを、突然作りたくなる。本当は椅子を作りたいという気持ちはあるのだが、そこまでは今の状況では取り組めない。
本当の事を言えば、四角いままでも、丸のままでも良いのだが、部屋の中にあるのだから、家具のような形をしていた方が落ち着きが良いというだけだ。作りたい椅子というのも、風化木あるいは風倒木、土埋木のケヤキの形を生かしながら、樹を彫り込んで行って、座り込めるような椅子が作りたい。トーテムポールのような椅子。形が細長いというのでなく、自分の家のトーテムポールのような椅子。等と思いながら実は欅の大木の方は眼は付けてある。家のそばなのだが、困って切り倒されかかって、そのままにされてしまっている可哀想な木だ。目どうりで1メートルは超えている。その目通りを10センチぐらいの深さで、ぐるりと切られた。自然に枯れて倒れるのを期待したのだろう。理由は判らないが、大きくなりすぎて、運び出すことも出来ないし、邪魔と言う事だろう。一度は枯れそうに成ったが、又復活してきている。すごい生命力だと思う。
今回作ったのはちゃぶ台の厚いものだ。6センチぐらの厚さの板が、90センチの直径、ただまん丸の形にして、それを研いたものだ。足となっているのは山北の家の隣で切り倒された欅の枝だ。可哀想で拾って小田原まで持ってきた。少し反ってきているが、それがちょうど良い。あまり見事に磨かないで、適度の所で止めて、キヌカを付けて擦る。塗料を塗るのとは違って、染み込んで風合いがよくなる。以前は椿油と、ひまし油を使っていたが、キヌカの方が感じが良い。何度か磨きこむと、大抵の人は塗料を塗ったのだと思うような、しっかりした輝きがでてくる。キヌカは要するに米糠油だ。昔は米糠で家を磨いたらしいから、理にかなっている。
屋久島には土埋木という宝物を山奥で探して、ヘリコプターで搬出する仕事がある。これは特別に屋久杉ということになるようだが、私には屋久杉であろうが、杉では困る。やはり、ケヤキが良い。広葉樹は油分が少ないから、腐ってしまうのだろうか。腐るなら腐りかかる時があるのだろうから、腐る所が腐ってしまって残った、その当たりが良い。それなら流木という方が適当であるかもしれない。いずれ木が充分に生きて、自然に帰る途上にある姿に、引きつけられる。あれは人為を超えた形の魅力だ。それをごくありきたりの調子で、素朴に人為を加えさせてもらう。わずかな変化で椅子になった。そんな家具で暮したい。そんな椅子に座りたい。出来るだけチープな雰囲気が良い。そんなことで、何時になっても椅子の方は作れない。テーブルの向こうに見える籐の椅子は、忍野に暮す満仲氏の25年前の作品である。