豊かさの本質
中学生の頃、「ニューギニア高地人」本多勝一氏の朝日新聞の連載を読んで、大きな影響を受けた。確かな記憶ではないのだが、カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧民と極限の自然の中で生活して居る人達と共に暮した記録を、新聞に連載していた。世界で最も幸せに暮しているのは、ニューギニア高地人である。一緒に暮したいと、書いてあった。それは柳田国男氏が民俗学を始めるきっかけとなる、椎葉村での充足し安寧に生きる人との出会いと重なった。「貧しいと言う事と、不幸とは違う。」人間が生きるそぎ落とした暮らしに、本当の充実があるのではないか。それは私が曹洞宗の僧侶として生きようとした、動機でもあった。道元の時代の僧侶は自給自足である。葬式とは関係がない。それは中学生のときから、今に到るまでほとんど変わりがない意識としてある。物に囲まれる他に与えられる幸せもあれば、生涯無一物というそぎ落とした、自立した充実もある。
「生を明らめ 死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり。」道元の正法眼蔵を明治時代にまとめたものの冒頭の言葉である。この明らめる、実は諦めるでもある。明からかに成れば諦めることができる。認識できた時に解決できると言う事でもある。と私なりに解釈している。資本主義経済は欲望の再生産によって成り立っている。それが人間の本質であるとしている。これは競争の原理であり、最後には躓く考え方ではないか。欲望には切りがない。物質的側面だけで考えれば、今の暮らしは、私の子供の頃で言えば、夢のような暮らしが実現されたはずである。それでも、あの戦後の時代でも今より幸せ感があったのは、過去のフィルターがけだけではない。物をあふれさせようと言う力は、物がないという飢餓感を煽る仕組みだ。もっと、もっと、隣の芝生を幻想させる。一代で大金持ちになった「ホリエモン」のようなモデルを作り出す。それ以外の人間は、まだ不足で不幸せであると意識させる。
アメリカでは3人に1人の人間が軍とか警察とガードマンとか、防備の仕事をしているそうだ。そうしなければ安心して暮せない社会。不安の拡大再生産。金持ちに成ればなるほど、安心できない社会。拳銃を防備の為に受け入れている価値観。世界を敵と見方にわけて、軍事力の増強を重ねる。こうした軍事競争の果てが、憎しみを育てて、テロを生む。この増幅現象をどこかで断ち切らない限り、人間は滅びる。その断ち切る理想主義が日本国憲法だと思う。まるでニューギニア高地人のような、現実とは思えない思いが、後にトランジスターラジオのセイルスマンと言われる国に、舞い降りたのである。この奇跡が起きたのは、我々日本人の贖罪の思いの表現であった。それは、ドイツ人のナチスへの反省と、同等のものと考えたい。大変なことをしてしまった反省として。世界平和の為に、軍事力を放棄し、全力で努力するので、許していただきたい。と言う思いだ。与えられた憲法であるにしても、この思いが根底にあったから、今まで平和憲法を守ってきたし。又、近隣諸国も受け入れてくれた。
しかし、実質的には相当変質している。資本主義経済のなかで、グローバリズムと言う、強者有利な競争を行う以上、止む得なかった成り行きに巻き込まれた。しかし、今の状況は限界を超えかかっている。地雷を踏んでしまえば終わりというような、実に危険な状況を歩んでいる。武力増強の結果必ず陥る、冒険主義である。今のグローバリズムの中心的役割を担っている日本の状況。次の社会に進む過程で、行うべき中期的目標がある。いつか、一国自立主義に到達した段階での役割もある。段階ごとに考える問題が異なって来る。むしろ経済やお金とは違う側面で、世界に貢献してゆくことが出来るはずである。お金がなければ何も出来ないと言うのは、資本主義的まやかしに与えられた幻影である。一国自立主義についても、もう少し言及しなければならないが、いまは、それは方角と言う事である。
1月の農作業 総計5時間詳細は明日。