経済危機への提言
『金融危機を希望に転じる』25の提言と実践、農文協の現代農業増刊号である。農文協の増刊号はタイムリーな企画を、意外なことによく取り組む。定年帰農とか、新規就農とか、田園住居とか、新しい時代を切り開こうという、社会一般から見ればドンキホーテのような企画を次々に、取り組んできた。その意味で、今金融危機一色とも言えるこの機会に便乗しよう(失礼)という辺りがさすがというか。実際的というか。「ローカルな力で、食糧・雇用・家族の安心を自給」こういう副題が付いている。先ず、この中で紹介されている近々にだされる本に、注目。『東アジア四千年の永続農業』――中国・朝鮮・日本――F.Hキング著この本の解説が出ている。「永続農業」はなぜ滅びたか渡辺京二氏が書いている。1909年に日本、中国、朝鮮を訪れ当時の農業に驚嘆し、アメリカの収奪的近代農業に警鐘を鳴らした。アメリカの農務省に勤務した人のようだ。
日本の農地はガーデンと讃えられている。その土地の形状を余す所なく利用し、水を巧みに利用した、永続性のある農業と高く評価される。又、下肥を中心とした、循環型の全てを廃棄しないシステム、人間の暮らしが農業の生産の循環の輪にうまく組み入れられた姿に着目。キングは東アジアの労働者が奴隷的でなく、栄養も良く、幸せそうである、民衆生活の安穏な様相を支えていたものに、永続農業があると注目している。では、辛亥革命や明治維新は一体何であったのか。渡辺氏はこの疑問を投げかけている。市民革命以前の社会を前近代的という、曖昧なくくりで分析を怠ることの危険を主張している。「中国の水上生活者の、特に女性や子供が輝かしい目で、快活そうな顔、」この相貌は国家というものに、管理される以前の民衆の自立した共同社会が示していた相貌ではないか。我々の言う近代国家とはそもそも難であったのか。
ナショナリズムによって点火された近代国家の成立、近代工業文明の創出。これが結局は日本の永続農業を今日の崩壊に導く、基点であったと言う疑問。とすると、人類史は何を弁証してきたのか。こう問題を提起している。私の長年抱いている疑問そのものである。誰しも暮らしというものが便利快適に成ることに異存はない。しかし、ここで言う快適は人間の生命としての本質的な快適であるのかが疑問ではないか。近代工業社会は、欲望というものを創出する。車が欲しい。冷房が欲しい。現状を不足なものであると、幻惑を与えることで、ニーズを産み出す。消費は美徳の名の下に、拡大再生産こそが社会発展の基本構造である。現状維持は旧態依然で悪と言う事になる。このメカニズムの中では、伝統的な完成された永続農業は崩壊せざる得ないであろう。
自給の思想について、立ち戻って考える時、前近代と呼ばれた、古臭いと呼ばれた、農業の中に、その背景となる哲学の中にこそ、次の時代を示す指針があるのではないか。人類が地球で生息するための合理性がどこにあるか。不足を埋めるという考え方から、不足を受け入れる暮らしを再構築する、必要があるのではないか。金融危機に対する具体的な処方箋と言う事になれば、この増刊号に示された。25の実践的提言はいかにも、悪評の定額給付金よりも、頼りない具体性のないものである。資本主義経済の発展という枠組みから見る以上、箸にも棒にもかからない、金融危機とは無縁の提言に見える。根本の経済体制が、グローバリズムというアメリカ主導の世界経済体制の、元ではどれほど可能性のある提言も。ドンキホーテなのだろう。