ごぼうの収穫

   


ちゃんとした牛蒡が作れないようでは、百姓でない。そんな風に思い込んできた。筧次郎さんの「百姓入門」を読んでからだ。もちろん毎年作ることは作った。食べることも食べた。でもこれが牛蒡だ。と人に言えるような、牛蒡はできたことがなかった。筧さんは、手で掘る牛蒡の価値がわからない人に、自分の農作物は食べてもらいたくない。こう言い切る。と言う事は、手で掘ることが、大変だと言うほどの牛蒡ができていると言うことだ。恥ずかしながら、長さ1メートル以上、太さ3センチと言うような普通の牛蒡は出来たことがなかった。だからわざわざ掘る労働を人に言い募る必要はない。それがついに今年は50本ぐらいは出来たのだ。1メートル掘っても、1メートル下が畑の土になっている。ちょっとこれは自慢したい。この前から集荷場では、牛蒡の堀時を聞いていた。松本さんなどは、私が牛蒡を栽培できるなど、端から考えても居ないから、出てきた牛蒡じゃ、土が固いから、伸びていないでしょうとか、トンチンカンなことを言っていた。今までの畑の耕作はそう言われても仕方がない。まさか種を撒くわけがない、こぼれ種から自然に出てきた、ごぼうに違いないと思っているのだ。

畑は土作りばかりしてきた。先ずは作物を作るより、土づくりだと思ってきた。3年前まで草もはえない、化学肥料の畑だったところだ。それが放棄されて、2年。そして私が畑に戻して、2年。やっとまともに成ってきた。始めの頃は、変な虫ばかり出た。一日で、葉物の苗が食べつくされる。何を作っても癖がある。ここを畑にするには、土づくりのための耕作を続けることだと思って、根気良く、採れないでも採れないでも、作物を空けずに作った。草も出したが、作物は常に何かしら栽培していた。機械は一回しか入れなかった。耕さなかったが作物が耕す、草が耕すと言う事を、重んじてきた。耕土も極端に浅かったが、作毎に深くなる感じはしたのだが。ごぼうがきれいに出来て、スックット抜けるような土になればと、願っていた。少しづつだが、美味しい作物ができるようにやっとなってきたようだ。私にとっての「土づくり」は鶏を飼う事だ。鶏小屋にどんどん草を入れる。草が山となり、鶏の鶏糞と混ざる。それを畑に入れる。これを繰り返していれば、他には何もしないでも土がよくなる。こう思ってやってきた。

土が良くなるとはどう言う事だろう。草の種類も変わってゆく。窒素分が増えて、柔らかな草が増えるというのもあるが、それだけでなく、畑には迷惑な、妙な嫌いな、爬虫類的草が徐々に減っていく。生えていても許せるような、草生栽培や自然栽培が可能な草に成る。これは化学肥料や、消毒を一方で使っているとすると、どうにもそうはならない。だから草は排除する以外なくなる。特に除草剤を使っていた畑の雑草というのは、たちの悪い奴らが多い。この辺は不思議なものだ。結局どんな土づくりや栽培法でも、継続してみないことには見えないことがある。私の思う良い土とは、腐食分の多い土。ふかふかで水はけがよく、水溜りの出来ない土。硬く締まっておらず、団粒化している。一間ぐらいは竹杭が刺さる土。良い微生物が豊富で、入れた堆肥が良い発酵になる土。どうすればそうした土が出来るのか。

表土を風雨にさらさない。草堆肥を沢山入れる。常に作物を作っている。大雨でも表土が流されないような、地勢にする。作物を作る順番を良く考える。連作のほうがいいものもある。日当たりのいいことは、何より重要。日当たりは何万年同じく良かった。化学物質をいれない。虫を敵としない。畑の周辺の草の利用や敷き藁を重視する。時に天地返しも必要だが、基本は耕さないでも、耕したようになること。上から上から、必要なものを重ねてゆく気持ちで。堆肥は入れないが、畑屋鶏小屋で堆肥を作っているような気持ちで。根菜類を上手く利用する。特にごぼうのような深いものを、必要なところに作って掘り返す。緑肥も必要なときがある。草堆肥はどれだけ入れても余分と言う事はない。

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