自殺と児童虐待

   

年間の自殺者が十年連続で三万人を超えた。警察庁のまとめでは、昨年一年間の自殺者は三万三千九十三人にのぼった。自殺率でみると、主要国ではロシアに次ぐ高い割合で、アメリカの二倍、イギリスの三倍だ。
2007年度、児童虐待は、過去最多だった。4万618件だったことが17日、厚生労働省の集計(速報値)で分かった。対応件数は、集計を始めた1990年度(1101件)から毎年増加している。(報道より)

日本の社会は危機にある。とても異常な状態である。緊急事態である自覚が、持てない所に、この社会のおかしさが象徴的に現われている。自殺と児童虐待は数値的に、その危機を浮かび上がる数値だ。目標の喪失。希望のない社会。バブル時代の上昇機運の反動。何となくはそんな風には捉えられている、もう少し具体的に考えてみる必要がある。オウム事件がその前兆であった。秋葉原事件が今の実態を表わしている。オウム真理教の繁殖するかのような拡大は、その理由が社会の中にもあった。しかし、社会の側はその確認を出来なかった。この間、混迷を深めるだけで、その対応を怠ってきている。迷走飛行している、日本社会の構造は、拝金主義だけが唯一、ゾンビのような生命力を維持して、蔓延を続けた。倫理とか、正義とか、信念とか、人間の善的要素は、経済の前にひれ伏してきた姿。

貧困の原因を、各自の努力不足に起因するもの、とするのが、競争社会の原理だ。明治政府の作り上げようとした日本帝国の基本原理。世界に伍して、世界での競争に勝つ。この価値観だけは、敗戦にもかかわらず、失われることは無かった。軍事力で負けたのなら、今度は経済競争に勝利する。それは企業規模でも、個人の範囲でも同じことで、あらゆる場面で競争を、最優先してきた。例えば幼稚園の徒競走に順位をつけないことを、陰で怒る父兄が結構多い。競争こそが成長する要因だと考えている。競争がないから、努力が無くなり、活力が失われる。そう思っている人が多数派。本当に人間の成長に競争が必要なのだろうか。受験競争が無ければ、勉強をしない。その通りだろう。しかし、受験競争という中での競争の学習は、本当の勉強なのだろうか。一部の人間にとっては、有効な成長になるだろうが、大半の人間にとっては、全くの無駄だ。言えることは、企業の都合のいい人間を作り出すには、有効な受験競争である。もしこの競争が評価されるものなら、その勝利者たる官僚のタクシー金銭授受に見られる浅ましさは、何を意味するか。

人は経済競争など無くても、その能力は充分に発揮されるし、磨かれる。江戸時代の日本鶏を見れば、よく分かる事だ。鶏を飼う事を文化としてまで、深めてゆく能力。経済競争に勝つために、産卵性や、飼料効率を上げる事を、絶対善として鶏を飼う現状。その為には、動物虐待そのままである、工場養鶏を平然と行う。世界でも、頭抜けた改良の技術を持ちながら、鶏の鳴き声を洗練させ、その姿を楽しむ。庶民の暮らし。産卵性の向上など、誰も考えなかった。ペリー艦隊が、雌鶏を欲しがった理由が分からなかった日本人。鎖国という枠を自ら課した状況。枠の中でどう安定を取るかに、苦心する社会。日本という枠をもう一度見直すことだろう。藩と言う枠をもう一度見直すことだろう。部落という枠をもう一度見直すことだろう。

貧困を脱する事が、日本社会の目的であったとするなら、明治期より明らかに江戸期の方が暮らしは豊かであった。文化的にも豊かであるし、暮らしぶりもましであった。一部の成功者を祭り上げる、階級社会を目指す事を、覆い隠そうとして来た。近代化の問題。近代化の中で広がる格差。階級社会の到来。建前だけの自由平等。それを合理化する、「努力の論理、競争の論理」。近代化が獲得してきたものと、失ったものを、冷静に見極める事が、この混迷から抜け出る一歩ではないか。国会が終わっての記者会見で、福田総理大臣がよくやったと自画自賛していた。追及した野党も100点満点の自己評価をしていた。この危機を少しも感じていない、驚くべきにぶさ。大きく舵が変えられなければ、墜落する国。

昨日の自給作業:草取り、畦直し、1時間 累計時間:33時間

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