日本水彩画展
第96回日本水彩画会展を見せてもらった。
水彩人の仲間の小野月世さんが出しているので、毎年見せてもらっている。今も上野の都美術館で開催していて、国立新美術館に移らなかった団体展だ。水彩連盟は移動したので、水彩の大きな団体は移動したものと、残ったものとに分かれた格好だ。今後どう変化してゆくのか興味深い所だ。もともと、私の所属している、水彩連盟展はこの日本水彩画会から独立した団体だ。と言っても、その分かれたこと事態が戦前の事で、もう水彩連盟のほうでも67回展と言う事だ。本家の団体だから、当然規模も大きいし、全国にある支部組織も充実しているらしい。絵の傾向はオウソドックスな水彩画中心といわれている。と言ってもここでも、アクリル系の絵が登場している。現代的な抽象表現の絵もそれなりにあった。
この会の絵を見るときは、ほとんど勉強に次ぐ勉強と言う事になる。こんなに良い学習の場はない。水彩画というものは、美術学校で講座がないように、簡単な小学生でもやるような初歩的な方法だから、各々独学すればいいという事に成っている。ところが、始めてみればわかるのだが、これがおいそれとはこなせない、厄介な表現法なのだ。方法が素朴であるが故に、扱いが難しい。表現の巾がないだけに、工夫がいるというような感じだろう。つまり、金属を表現するのに、金属板を直接貼り付けてしまうようなやり方もある。少し控えて、アルミ箔、プアチナ箔を張ると言う準じたやり方もある。水彩では、それを金属であるという約束で描く。そうなると、この約束事の了解が何処まで共通語であるかが、結構難しい事になる。素朴であると言う事は、俳句ではないが、約束で成り立つ了解の世界の面白さがある。だから、難しいことになる。
大げさに言えば、水彩画文化というものが成立して、初めて成り立つ。江戸の庶民が、油彩画の人物画を見て、顔を立体的に見せるための影の表現を、何故この顔は半分汚れているのかと、不思議がったそうだ。油彩には油彩の平面の中の世界の約束が実はある。これをレリーフ状にしてくると、これは又全く違う事になる。そうした暗黙の約束を膨らませて、俳句のようにした絵画が、水彩画と言う事になる。水と紙と、絵の具。限られた材料で、何処まで、表現できるのか。どこまで簡潔な表現の中に、物の本質の要点が描けるものか。これが面白いのだ。下手をすると、約束事にはまって、良くは描かれているが、面白みがないものになる。だから、日本水彩展は約束事の勉強にすごくなる。水の表現にはどんな約束があるのか。空の雲には、林の木陰は、草原の約束は、なるほどなるほど、の連続である。約束の中から、どう個人の表現というものが、立ち現れるのか。ここが興味シンシンで見てゆくことになる。
親しくさせていただいている、富高さんはある意味約束を通り抜けて、自由な世界で描いている。このあり方はこのあり方であるのだろう。水彩人の小野さんは、人という約束事を探っている気がする。皮膚表現、髪の表現、衣服の表現、水彩の中で何があるか、今までにない約束を、今までのやり方の中で、野心的に模索していると思う。いつも惹き付けられるのが、秋山氏、自由かつ大胆。水彩の約束がどこへ行くか。この辺が私自身の問題として、ぐっと迫る。小島さんの方法も約束として、実にすごい。何故こんな事ができるのか。だいぶ学ばせてもらった。
秋山和豊、小宮みどり、山端壽一、千代田利一、石田千枝子、高山政夫、平川進一、塩見和代、馬場一江、小野塚良子、上辻佳代、一木信子、川原田雪枝、松森健三、神原節子、富高ふき子、小松貞子、小島文夫、小野月世、以上の方に感謝して帰りました。