憲法学集会

   

5月1日と5月3日に憲法学集会があった。幸い2つとも出ることが出来た。土井たか子氏と、「らいてうの家」の米田佐和子氏だった。特に米田氏の憲法に対する考え方は、ピースカフェで目指す所と、大いに関わりがあった。米田氏は平塚らいてうの研究者、近現代史特に女性運動と女性思想を研究されてきたかた。今回の講演では、憲法25条と、9条の関係がテーマだった。平和的生存権とは何か。憲法の成り立ちを考えると、先ず天皇の位置づけが来る。これは明治の帝国憲法に対する、精算として、天皇制否定を先ず行うことが、必要だったのだろう。次にくるのが、第2章戦争の放棄、9条。そして、次に第3章に続き国民の権利及び義務とつづく。10条から、40条まである。4章以降は常識論のようなものだから、必要なとき読めば良い。2章と、3章だけは(9条から40条)は記憶しておいた方が、生活の上で役に立つ。

役に立つといえば、前文はなかなかの名文だ。しかし夏目漱石の文章でも、現代語訳が必要と言う事だから、この先心配ではあるが、般若心経を写経するくらいなら、是非憲法の前文を書き写した方が良い。よほどご利益がある。9条と25条の関係。第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。これも9条と同様に守られない、祭り上げられた条文だ。9条の軍事力の放棄が、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という前文に示された考え方による。平和を愛さない諸国民ばかりだから、9条が守れない。と言う事になる。同様に、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」権利はあっても世界は、恐怖と欠乏に満ちているから、日本だけが、健康で文化的という訳にはいかない。要するに日本国憲法は理想論であり、全世界がそうなった時だけ可能になる、空論だ。こう言う事に政府はしている。

所が、この憲法が出来た背景は、日本が行った侵略戦争の謝罪として、反省に基づき、日本国民が受け入れたものだ。平和国家再生日本の方向を示したものだ。最悪国家だった日本が、諸国民の公正と信義を信じる所から始めよう。こう言う事なのだと思う。性善説も性悪説もあるだろうが、「性善説で行こう。」日本の方向を示している。「殺す危険と、殺される危険」どちらも同じく危険はある。それなら、殺される危険で行こうと言う事だろう。軍事力を保持した所で、危険は減少しない、むしろ、危険度は高まる。それなら軍事力を放棄する、安全もある。「非暴力主義」。銃保持社会の方が危険に満ちているではないか。25条に言う、健康で文化的な暮らしを誰もがするようになれば、犯罪が減る。「平和な暮らし、安寧な日々。」ここを目指すことを日本の方向とした。

しかし、5月3日は国民の憲法記念日にもかかわらず、小田原市では、北条祭りを毎年この日に当てている。見たくもないので、真実は知らないが、市長が馬に乗って市内を睥睨する、らしい。市議会議員の行列がこれに続き、大名行列をするらしい。この大名行列が、そのままホールに入りたい、というのが「市長の要望」で乗馬のままで、通り抜けられると言う、奇妙奇天烈城下町ホールになった。と思われる。馬上から見ているとそんな考えになりがちだ。誰が次の市長になるにしろ、この時代錯誤は止めて欲しい。この日はせめて、憲法の事を学ぼう。憲法は実生活に役立つ。14条の3には、「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない」とある。こんな素晴しい文言に満ちている。

 - Peace Cafe