アジアの農業と日本の自給
穀物相場が上昇し、米の価格もわずかに持ち直している。今年の作付けも始まっているが、米は出来る限り作付けしなくてはならない。私のところにも減反の届けの書類が来た。農協が主導で進めているようだ。生産調整に協力するか。しないか。という項目があって、不本意なながら、協力しないと書いた。頼まれた事を断るというのは、実に嫌なものだが、減反など間違った政策だと思うので、仕方がない。食料を自給するというのは、国家としての基本的な部分だ。いかなる理由があれ、輸入に食料を頼るような国は、まともな国家とは言えない。資本主義経済の、資本の利潤を求める流れのままに来た結果だ。テレビや車なら、それでもいい。無くても我慢は出来る。食料を工業製品と同じ、経済の流れに任せれば、安い労働力の国に、生産拠点が移るのは当然だ。このことで人間に何が、暮らしがどのように変わるかが問題だろう。
安い労働力の国では、国家戦略として資本の進出を、日本に呼びかける。中国も、ベトナムも、タイも競争で条件を出す。農産品も日本向けに生産する。自分達の食文化にない、どう調理するかも判らないような、和食の細工物まで、仕事として請け負う。この経済のあり方が成果のように主張されている。日本のこうした進出を、職場の創出をしているのだから、感謝されてしかるべきだ。各国の生活水準の向上に貢献している。確かにそのように一見見える。実態はどうだろうか。その国の暮らしを破壊しているのではないか。このことがいつも気になるのだ。日本もそんな風に崩れてきたように感ずる。大切にすべき、民族の幸せ感が失われている。日本の食糧輸入が、アジアの暮らしを、グローバル化という形で、崩壊していないか。
自分たちが食べもしない食料を生産する。乗りもしない車の部品を作る。経済的豊かさだけが、暮らしの向上ではないのではないか。日本人の失ってきた暮らしを考えれば少し想像できる。昔は良かったというのでない。各民族固有の失ってはいけない、暮らしの基本があると思う。そこまでも崩壊しながら、暮らしの豊かさを求める経済競争では、何のための努力だかわからなくなる。各自の暮らしの中で、どこまでを経済に譲っていいか。お金の為にやってもいい仕事と、そこまではやるべきではない仕事。この範囲があるはずだ。食料の生産は各民族、各国家が、責任を持って行うべき仕事ではないか。食糧生産を他者に依存した文化は、望ましい性格のものではなくなる。例えば、地下資源が幾らでもあるから、それを売って、暮らしの全てを購入する国家。こうした国の経済が幾ら豊かであるとしても、その国家が文化的に、人類に貢献するとは、考えにくいものがある。資源が尽きた時に、その売り食いの国家は、人的に崩壊するのではないか。
資源大国と、同じ論理が、経済大国日本の資本の動きではないか。アジアの農業が、日本への輸出で成り立つ事は、当面望ましいことと受け取る、アジアの農民が多数だろう。しかし、この仕組みの行き着く先は、アジアの農業の崩壊になる。日本と同じことになるだろう。食料の輸入が止まり、自国でお米を生産しようとしたときには、田んぼがなくなっている。労働者はいても農民がいなくなっている。それでも田んぼや、農民は本当に困れば、再生してゆくだろう。しかし、失われた食糧生産の文化、それに伴う人間の幸せ感の方は、簡単には取り戻せない。食料の生産とともに、日本人が育ててきた。日本人の全ての暮らしに基づく、幸福感。民族固有の文化は失われてしまえば、取り返すことのできないことになる。