続、再生紙偽装
中国餃子にすっかり話題をさらわれ、再生紙の報道は、行政の広報などの再生紙を利用しています。の表示がなくなる程度の、話題になっている。環境省の特定調達品目検討会は1月29日、納入業者が環境に配慮する宣言をした場合、グリーン購入法の基準を満たしていないコピー用紙であっても、中央省庁への納入再開を認めることを決めた。しかも、偽装商品であるにもかかわらず、納入価格に変更無しだ。読売新聞の社説では、「安全にかかわる食品偽装と異なり、今回のケースでは、消費者は直接の被害を受けていない。」なんと言う鈍い見方だろう。私はこの直接の被害を受けている。再生紙と偽って、高い価格の紙を購入させられた。読売の社説の書き手は、再生紙の意味を理解していないのだろう。
再生紙の方が、価格が高いにもかかわらず利用してきたのは、環境にとって少しでもいい物だろうと思うからだ。その思いを裏切った企業倫理は、罰せられなければならない。特に若い人は、再生紙については反応が早かった。私には、安い紙として、再生紙のイメージがあった。トイレの紙だ。昔、A4ぐらいの粗悪な紙がトイレ用として登場した。その前は、新聞紙を切って使っていたので、贅沢な話で、お客さんでも来なければ、トイレに登場することはなかった。ダンボール紙が登場する前には、ねずみ色の箱用の厚紙が再生紙のイメージだ。60年代、紙は一気に白くなっていった。もう所謂再生紙を忘れた頃。フランスに行って、まだ充分再生紙の文化があったので、懐かしかった。
70年以降の日本の白は、白の上の白を求める。「耀く白」とか、「美白」とか、行過ぎた、味も素っ気もない白の事だ。蛍光材まで加えた白。照度いくつの白などと誇る、浅さ。白ければ白いほどいいと、単純に思い込んだのは誰なのか。陰影のある。含みのある白。こうした大人の文化というか、一歩手前の美しさ。わび、さびは何処に行った。と思っていたら、案外若い人達は、くすんだ白を好む。再生紙ファーンが案外に多いい。製紙会社では再生紙らしくするために、アレコレ混入した、再生紙風の紙を売り出す。所がこれでは、風合いが良すぎる、というか、再生紙のボロイ魅力がない。ブルーシートのセンスだ。何故あの嫌なブルーで、平気なのか。関西だったか。黄土色のものを見た。少し高かったが、なかなかいい。白くするために、やたらの漂白剤を使うのは、確かに良くない。大手5社の弁明どおりだ。それなら、白さをおさえて、行く方向に何故出来なかったか。
企業の利益の為に、折角の環境派の意識を、裏切った罪は重い。確かにここには、環境派の全体を見ない、狭い了見があるかも知れない。だから、言わんこっちゃないという、冷ややかな目を感じる。しかし、環境派の中に上質な文化的感性が生まれつつあることに、気づいたほうがいい。上質な芽が、育ち始めてきている。ここに、期待しないで、何に期待するのかと思う。これは、農業でも同じで、自然農でやるのだ。とか若い人が始めると。何を浅はかなと冷笑する。苦労も知らないでと言いたくなる農業者が多いだろう。でも、感覚は間違っていない。間違っているのは妥協的に農薬農業に傾斜した、利益優先の農法だ。だから、農業がつまらなくなって、儲からないと成れば、後継者など、先ずはいない農業になった。紙のことだった。紙が白くなり、すべすべになって、味気がなくなり、少年マガジンもジャンプも、内容もすべすべになり、読まなくなった。