ことしの雑草と蓮池
2016/08/10
今年は草に敗北した。コントロールを失い、一時茂に任せざるえなかった。特に竹薮跡の中段が、草にやられた。だいずを栽培した所は、まるで草原になっていた。暑さの言い訳があるので、まあそう言う事だ。舟原田んぼの周辺も結構大変だったが、近所の皆さんの目があるので、そうほっとけなかった。私としてはそこそこ許容範囲と思っているが、近所のゴルフ場のグリーンのように、刈り込んだ畦を見ると、あれでも駄目なんだとは感じる。田んぼの畦は3回草刈をした。この後1回。年に5回はやらないといけない。畦は1時間程度だから、まあそれでも済む。養鶏場は草刈の面積が広いし、竹がすぐ入るので、極めて大変。先日ついに、コッコ牧場の皆さんでやってもらった。幸い、雨交じりの涼しい日だったので、案外早く終わることが出来た。それから、少し涼しい時に家周りをやっている。
先日、穂田さんに種をつける前にやれば、たいした手間にならない。一度来てやろうか。と言われた。以前、石綿さんにもやってやろうか。と言われた。これは恐い。先日は、いつも草刈に熱心なお隣が、私のところの一部をやってくれた。草の種が飛んでくるので、やってもらいたいと言う事だと思う。それから必死でやっているのだけれど。まだ草に勝ったと言うところまでは行っていない。しかし、私は、草ボウボウは好きだ。この草の活力を見ていると、なんとも言えない喜びを感じる。だからせめて家周りは、草と共存した、畑にしたいのだ。自然農と言うと何かほって置く農法のようだが、大変知恵のいるやり方だと思う。手間暇は、草を刈ってしまう、あるいは抜いてしまう。それならまだ簡単だ。草と共存して、畑をやると言うのが、どれほど効率が悪いか。つい草に負けてコントロールを失う。
その点、田んぼは好きだ。コントロールの範囲で済むからだ。水を上手く調整してやることで、草の出は明らかに畑とは違う。福岡さんまではいけないでも、自分の始末の中で収まる。同じ事で蓮池はいい。そこはほっておける状態が作られている。特に草取りに入るわけではない。ヒエ、コナギ、オモダカはわざわざ生やしてある。姿も花もいいのだが、ただ観察している。じっくり時間をかけて、生えてくる所から、枯れるまでを眺めている。蓮も、一部去年のものを残しておいて、自然に生えてくるに任せている。それでそこそこ全体に広がった。水というものはすごい能力がある。水のありがたさだ。以前、ブータンだかネパールの田んぼで、これから食べるので、田んぼにお米を取りに行く姿があった。あれが私の理想だ。
地方に行けば行くほど、庭を人工的にするようだ。自然の山と隔絶していないと、庭にならない。草を見ているぐらいなら、野良を見ているようなものだ。都会に行くと山そのものが、庭に来た様にする。もちろんこれは最近の庭造りの傾向で、昔のように黒木を刈り込むような、庭を好む人はめったにいなくなった。雑木の庭。柳田國男氏の成城学園の庭は、自然のままだったそうだ。手を入れない自然を楽しんだそうだ。私も真似をしているのだが、単なる不精モンにしか見えないところが、残念な所だ。私の程度なりに、畑の庭にしたい。ここがちょっと欲張りな夢なので、苦労している。その日食べる野菜ぐらい、庭に行けばあるというようにしたいのだ。野菜とまでは行かないでも、食べられる雑草ぐらいでも我慢する。秋から再挑戦に入るつもりだ。