参議院選挙の争点
今回の参議院選挙は年金選挙と呼ばれているようだ。以前より、この参議院選挙が、憲法改定の山場になると考えていた。大違いだった。憲法はどこかへ今の所行ってしまったようだ。以前から、山崎拓とか言う議員は、困った時の憲法頼みで、議員汚職などが騒ぎになると、憲法改定を持ち出した。ところが、本当に変えようと言う話が出てくると、その点も様変わりで、お金の事ばかりが前面に出てくる。憲法は国の骨格を決めている、最も大切な基盤だ。と言っても、それも経済が既定していると、経済学では考えているようだ。年金の事は関係がないわけではないが、何故か調べに行く気にもなれない。間違えた奴が、調査結果を報告しろ、それが当たり前の事だ。生命保険会社が保険金を払わないで済ませていたと言うので、営業停止になっていた。国の場合はどんな責任に成るのだろう。
年金選挙もいいが、憲法改定も忘れて欲しくない。日本は平和主義で行く。軍事大国は目指さない。この選択を明確に行う選挙のはずだ。少なくとも、安倍自民党はそのことを争点の選挙にすると、言っていたはずだ。上原公子さんはそれがあって、社民党から立候補した。何故国立市長を止めてまで、参議院選に出るのか。苦渋の選択だったはずだ。どうしても憲法の平和主義を守らなくてはならないという思いから、立候補を決めたのだろう。この機会に上原さんには当選してもらい、社民党を市民政党に脱皮してもらいたい。市民的な政党が存在していない。地方議会にはそうした意識の議員が現れているが、国会には市民的感覚の政党が存在しない。本来、民主党の管直人氏などはそのはずだったが、どうも市民的感覚から離れている。
もう一つの判断材料が経済格差の問題だ。飼われた労働力。隷属する労働力。こうした基盤となる労働力のあり方で、国際競争に勝てると企業が考えているとしたら、人間として見ていない証拠、という事になる。労働力内部の、上下二分化が、つまり労働者内格差。もしそれが国際競争に有利と言うなら、インドのような社会形態が、階層社会が固定化されている社会が、有利と言う事になる。これは人間と言うものの尊厳を崩壊するものじゃないか。当然の事で、ストライキを行って戦い取るような労働者は、一部の事だ。それは農業者も同様で、食料生産を自分たちの人間としての尊厳として、主張しなければならない。その為には農業者の連帯こそ重要なはずだ。本来農協が担うべき役割であるはずだが、農協の意識はむしろ資本家のようだ。
日本人の精神の骨格が崩れてきている。年金にしても今表に出てきているが、20年も前から分かっていたことのようだ。これを、先延ばしにして、平気でいたことが、すごい所だ。農水省でも常軌に外れたようなことが、いかにも普通にまかり通っている。起こる事故なども、その原因をたどると、そんなこと当たり前の事が、何故。と言うように驚く。流れるプールの蓋の事故など、責任云々より、何か根本が欠如して来た、気がしてならない。ちょっと気が回れば済んでいたようなことが、それですまなくなっている。それは暮らしがなくなったからだと思っている。生活をするという、人間なら当然の事が、希薄に成っている。生命としての基本が、自分の力で生き抜くという力が、弱まっている気がしてならない。選挙から離れたようだが、日本人の暮し方を変える選挙にして欲しいのだ。おかしい事をおかしいと投票すれば、日本が変わる。これが議会制民主主義だ。何とかしよう。