身体年齢

   

お茶摘みのときに刺された跡が、まだ残っている。その小さな跡を見ると、身体年齢を感ずる。丁度一月経っているのに消えないのだ。当然昨日の田植えの疲れも、ドット来ている。動けないほどではないが、肩、首、腰が重い。コロナの湯に行ったのに直っていない。コロナの湯には、薬湯がある。薬湯は薬湯で好む人がいるがようで、たまには居ると、見た事のない人ばかりだ。昨日は、八漢湯という漢方を混ぜたもので、肩こりにいいと書いてあるので、入って見た。漢方薬局の匂いで、何か肩こりが取れていくようだった。若者が二人どかどかと、非礼に、もちろん非礼でいい。そんな調子がいいのだ。バシャバシャはしゃいでいる。「クセナァー。オイ。クセーゾー。」漢方に縁がないのだな。などと思っていると。「カレー臭だ。カレー臭だ。」最初は確かに、カレー屋の匂いとは違うよ。と思った。そうじゃないことに気付いて、何かドキッとした。

身体の疲れはあるのだが、今朝のこの安堵感は大きい。今から田んぼを見てくる。田んぼは上手く行っている。水の減水の調子はまだつかめないが、昨夜の調整の結果は出て居る。一番上は、いい。2番目の減水が大きい。三番目は程ほど。2番目からの入水も少し加えればいいのか。1番目からの入水を増やすことがいいのか。両方か。今日は捕植えをして、辺りをきれいにしよう。畦がだいぶ壊れたので、これをすこしきれいにしよう。辺りの空気が中々いい田んぼだ。身体が重かったことを、すっかり忘れていた。忘れ易いのも年齢のせいで、身体は着実に齢を取っている。私の父は、亡くなる少し前に行っていたのだが、「齢をとり、死ぬことがなんでもなくなるように、ボケてくるように人間出来ている様だ。」

根気が良くなる。これも年齢のせいだ。継続することが何でもなくなって来た。以前はすぐ飽きた。飽きると言うより次のやりたいことが出てきてしまった。結局、やっていることを、結論を出さないまま放棄してしまう。それは今でもあるか。そう、おばあさんは良く小豆の選別をしていた。朝始めて、夕方でもまだやっていた。翌日もまた朝からやっていた。何故続けられるのか。全く私には理解できなかった。何か、機械のように反復できる。それはモダンタイムスのオートメ機械ではなく、水車のような、気長なゆったりとした、自然の流れに乗った仕掛け。竹が風に揺れているように、手が動いていた。私にも少しづつそうした根気が出てきた。歳のせいのありがたいこと。

身体年齢は着実に、57歳だが、どうも気分のほうは、相変わらずで、困った事だ。これは団塊の世代の特徴で、いつまでも若者気分が抜けないのだそうだ。そう、定年帰農。まさかと思うが、本気でそんなことを思うのが、団塊の世代だ。農業を甘く見ているのではないと思うが、わが身を省みれないのが、年寄りの特徴かもしれない。ここは自戒として、重く受け止めたい。と言いながら、今年も田んぼのやり方を変えた。草押さえに、蕎麦の製粉クズを使った。昨年までの米糠に、変えて、蕎麦を使った。これはリスクが確かにある。昨日近所の皆さんから心配の声が出ていた。当然のことだ。普通でないことはやらないに越したことはない。これで臭くなったら、相当の批判を受けなければならない。田んぼが変われば、土が違う。土が違えば、発酵は変わるかもしれない。しかし、そのリスクを考えても、可能性にかけたかった。

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