高校野球特待生制度

   

高校野球は高校の教育の中で行われている。当然の事だ。しかし、高校野球連盟の言う教育とは何を指すのだろう。野球に優れている者を、特待生とすることを禁じていたとは、驚きだ。アマチアリズムというのか、オリンピックですらプロも参加している中で、どんな教育を目指していたのだろう。この背景にある虚偽的事実を、増長させただけと言う事を充分承知でありながら、何故今更こうした建前論が出てきたのだろう。一般に、野球部の特待生は、直接は禁止されているから成績優秀。あるいは、優れた人格と言う事で特待生扱いに成っている。たまたま、専大東北高校がその抜け道に気付かなかっただけ、というのが実態。そうした実態を知っていながら、みんなで知らない振りをして、騒いでいる報道もどかしている。この騒ぎで傷つきかねない特待生に対し、真摯な態度を取って欲しい。

学業優秀の特待生が問題にされる事はない。何故なのか。学問がができると言う事は神聖な事だからだ。どんな扱いを受けたとしても許されるような特別な事だからだ。しかし、この事とて、高校経営の一つになっている場合もある。東大入学者数を経営の看板にしたくて、優秀な中学生を様々な形でスカウトする。これが、特待生のような、金銭的恩恵ならまだいいが、中学に対し、他の生徒との抱き合わせ入学とか、中学教師に対する何らかの優遇。こうした事も、教育が経営的になる中で、やむ得ない事として、一般化している。その経営法の一つが、スポーツで有名校になる事である事も、常識化している。学校関係者にしてみれば、きれいごとを言って経営が出来なくなったら、どうなる。こういう、気持ちがある。子供の減少する中、私学経営は困難を極めている。又この競争激化が親のニーズを取り込む事となり。公教育離れが起きている。

スポーツで優秀である事は学業ほど神聖視されていない。これは武士道的に言えば、逆だろう。腕っ節の方が、頭の小賢しいより上が武士道だ。文だろうが、武だろうが、教育的に評価できるから、模範となるから、特待生扱いをされて来たわけではない。経営的に有利だから、授業料などを免除した、と言う事が読み取れる。であるなら、特待生制度そのものを批判すべきだ。いや、そうした私学経営の背景を問題にすべきだ。その矛盾の結果である、生徒を云々される事になり兼ねない現状は、早急に文部省が解決すべきだ。何故傍観するのだろう。そして、一部の野球高校生を特待生にした学校を罰して済まそうとするのか。

教育は本来無料でしかるべきものだ。教育を営利事業として取り組む、又そうした学校ほど、評価されやすい現状を、見直すべきだろう。学ぶ者が集まり、教えてくれる教師に来てもらう。これが原点だと思う。教える側が集まって、生徒を募集する形式は、間違えの基になる。教育は勝ち抜く為の能力を磨くところではない。一人ひとりが人間として成長する場所だ。他者と比較するところではない。他者と比較できない物こそ、教育が大切にしなければならないものだ。「愛する力。感ずる力。想像する力。創り出す力。」こうした力は企業的競争社会では、いらないか、邪魔になるかもしれない。しかし、人間が生きるという原点に立ち戻れば、計算が速いとか、複雑な思考ができるとか、要領がいいなど、と言う事は人間のほんの一部の能力に過ぎない。学校教育は世界での経済競争に勝つことが目標、こちらを止めるのが本筋だ。

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