水彩画とは、なんだろう。
水彩連盟展で、丸一日、じっくりと水彩画の事を考えさせてもらった。会場が新国立美術館に移り、明るくなり、何とか絵を見ることだけは出来るようになった。水彩連盟展に出品し始めた頃は、アクリル絵の具で描いていた。その後会員と言う事になり、まさかアクリルで描いているわけにもいかないと感じて、水彩絵の具で描くようになった。会員になったのが、44回展で、現在66回展だから、水彩を書き始めて、20年以上になった。そもそも、水彩とか、油絵とか、素材を云々する事がおかしいと言う考えがある。あるいは、日本画とか、西洋画とか、分野分けすることが芸術における、平面絵画という考えからするとおかしい。
絵画を描いていて、たまたま素材として、水彩で描く時もあるで、いいのだろう。ところが、これがそう単純でもない。自分の制作の本質を考えてゆく上で、その本質にたどりつく道筋が難しい。芸術とは何か。これは大前提だ。その上で自分がやっている事、やりたい事の方向を考える上では、今つかっている素材の事を抜きにして考える事などできない。水彩連盟展には、水溶性絵の具を利用した、水彩絵画であろうとする平面が、681点ある。そのうち水彩画と呼べる絵画は、150点ぐらいであった。後は残念ながら、水彩画とは呼べない物だった。それがおかしいと言うのではなく、私の考える水彩画とは、狭いようだ。その特徴はと言えば、「水彩絵の具で、紙に描いている。」この当然といってもいいだろう条件で、すぐ300点に絞られる。コラージュ、パステルは使わない。これで更に半分の150点になる。善悪、是非は解らないが、全てはその上での事だと、全く個人的に考えている。
それぐらい、水彩の特徴が好きだと言う事がある。水彩絵の具の魅力は、透明性にある。紙の白さを生かす。透明な絵の具の使い方にある。これは他の材料には出しにくい、特徴だろう。今回、このことをじっくりと学ばせてもらった。例えば、白の重色の美しさ。白を下の絵の具の色を充分に残しながら、重ねて行くことで、いわば白濁した色が出来る。ところが、これを、実に美しく濁りを感じさせない形で使う人が居る。これは、どの色でも同じ事だが、透明色の重ね塗りは当たり前だが、不透明色の重色には、技量が必要だ。不透明と言っても、水彩絵の具の顔料の粒子の細かさは、格別で、ガッシュの不透明とはかなり違う。だから、一番近いものが、炭だろう。水墨であり、書だ。そこに色という意味が加わる為、違った物に見えるが、本質はかなり近いのだと思う。
そうした水彩材料の特長を生かした、表現がどこにあり、どう生かされるのか。例えば、星や蛍を表現しようとする。1、暗い空間を先ず描き、そこにパステルで、点を入れる。2、あるいは、暗い空間を描きながら、白の紙の地を残してゆき、残した、ところに、赤なり黄色なりを入れる。3、あるいは黒い空間を拭き落として、白い色を掘り起こす。削りだして、紙の白を出す。星や蛍の色は、暗い空間の中で、揺らいでいる。どこから明かりで、どこから闇の境はない。これはどの色も同じことで、自然と言うものは混合していて、境目があるわけではない。これは、たぶん、自分と言うものと、外部と言うものに、境目を感じるかどうかなのだろう。個と全体の関係をどのように把握するか。その本質だけに迫る時、水彩という材料は、その骨格を示すことに、長けているのではないか。この先が難しい。この難しいところを、一日考えていた。