自給的に生きる事 その1
2016/08/08
自給的に暮す。この方法だけが人間が生き残れる道だ。問題は自然から大きく離れてしまった人間が、自然に即応した暮らしに戻れるかにかかっている。ロカンタンはマロニエの根っこで吐き気を催す訳で、自然物だから癒されると単純にはいえない状況に現代人は来ている。そよ風が渡る縁側の昼寝より、完全に遮断した、無菌的室の中にいるほうが、心地よいと言う人間になってきた。畑仕事もいいけど、実際、土に触る事ができない。そんな人が少なくない。
自然に馴染んで暮す。この方法をどれだけ取り戻す事ができるか。。出来る限り具体的にこのやり方を、探ってゆく事。鶏の飼い方。これを私達の暮らしの中に、取り入れる方法を見つける事。鳴き声がうるさい。うるさいと感じる事がおかしいわけだが、すでにそういう状況は通り過ぎた。うるさくない鶏の飼い方を提案する事。さすがこういうくだらない技は、江戸時代の人も考え付かなかった。
環境問題、地球温暖化、水・大気・土壌の汚染。いずれも解決不能のまま進んでいる。日本は京都議定書の目標値すら、遠のく一方だ。アメリカが約束すら結ばないと言って、抗議しながら、日本人の暮らしのNO2の排出量は増加させている。暮らしを変える以外道がないことを気づく。これは遅くなれば遅くなるほど大変な事のなる。この変え方の道を提案してきたつもりだ。
どうやって普通のサラリーマンが、自給的に米作りが可能か。又その事が、仕事にも役立つ物になるか。極端な、変換でなく、わずかな暮らしの変化のなかで、人そのものが変わってゆく、そんな方法を探ってきた。一つの鉢のトマトの苗が、何かを変えてくれるのではないか。そんな期待を持ってやっている。わずかな成功体験の積み重ね。そうやって、生き方の角度を変える。今日は昨日と殆ど同じだが、一年経てば、違う地平が見えてくる。そんな方法を探りたい。
特に若い人だ。若い人の方が、人間としてのゆがみは当然大きく成っているはずだ。自然から完全に切り離されて、育ってしまったからだ。大規模養鶏場の鶏のようなものだ。自然の中に放しても、歩く事さえできない。しかし、人間は不思議な生き物で、本能的に危機を察知して、自然に適合した暮らしに戻ってくる者が、いる。良くぞ。と思うが、その道は当然のごとく、困難に満ちている。それをわずかでも応援したいと、思ってきた。しかし、他人が手助けできることなどないわけで、その人が、その困難を切り開いてゆくしかないという事。
この一年は、このことを学んだ。心の通い合う仲間がいる事。人間が分断され、繋がれなくなっている。理屈ではともかく、実際の暮らしのうえで、繋がると言う事がない。助け合うとか、思いやるとか言う事が、するほうもされるほうも無い。ともかく心が通じ合わない中では、やることなすこと、良くないことになりがちだ。いい関係を作り出すこと。これに尽きる。
自然に即応して生きる。自然を変えるのでなく、自然に溶け込んで生きる。自然への馴染み方を探る。自然わずかしか変えないで、人が生きる方法を探る。それを出来る限り具体的に。完全に自然から切り離されて育ってしまった人でも、可能な方法で。