地場・旬・自給の続き
頂いたご意見を含め、又農の会の掲示板でも展開されている、考え方を含め、農の会のこれからの展望を考えてみたい。
「農業者・市民農・消費者・顧問と呼んでいる協力農業者」正確に言うと、この4者によって農の会は形成されている。全体で300軒ぐらいだろうか。この連なりの境をなくし、共通の方向に進むことが出来ないか。こう考えてきたと思う。ONODAさんのご意見のように、消費者はどうか。先日のアンケート結果でも、考え方はよく理解してくれているが、活動への参加者は限られている。こういうことだった。
農の会の提案するところが、実はちょっと重たいことなのだろう。田んぼの会の趣旨はいいけれど、これに参加し続ける人は、そうは居ない。相当の信念がなければ、無理なことだと思う。農業者は忙しい。とだけは言えない。誰しも極めて忙しく、田んぼをやるには、他のやらなければならないことを止めて、参加しているのだと思う。でも、農の会はこれを提案し続ける会だろう。そして、一人、一人と確実に増えてきた。今後も、間違いなく増えるだろうし。農の会と似た活動が、全国で生まれて来ている。少数ではあるが、傍観者的で無い人が出てきている。
農の会が切り開いてきた、市民参加の活動方法は、他の同様の会の参考になっていると思う。一般に行われてきた農業体験が、体験とは言えないものであった。全てが用意されていたり、上手いとこ取りだったり、全体性が見えない体験では、誤解が生まれる。農の会では周辺農家への気配りから、水路の草刈まで、共に行うことで見えてくる物を大切にしてきた、つもりだ。
農業者が自立出来るなら、それもいい。その自由が、気持ちいい関係として作り出されることは大切だと思う。現に、Iさん、Eさん、Kさんはそうした関係で農の会とかかわりを持っている。共同出荷には参加しない。あり方はそれぞれだが、そうした人は増えていいと思う。そのような選択が気持ちよく出来る会であり続けなければならない。人が減ることが、少しも会の運営に負担が無いような、仕組みでないとならない。増えることも同様に、負担が起きない様な仕組みでなければならない。
研修の仕組みが必要だ。農の会に農業者として参加するには、研修を経て互いの理解が深まる必要がある。農の会の参加者も研修を通して、学ぶことが出来る。市民農の自給には一般の農業とは違った、合理性が必要だ。これも実体験できる形で提案して行く必要がある。消費者にも学んでもらわなくてはならない。筧さんの書かれている。手で掘ったごぼうの価値を理解してもらえる。消費者に育ってもらわなくてはならない。いいものを、安全な物を食べたい、という消費者に対応するのが、農の会ではない。
結局は暮しそのものを提案してゆくことだろう。やりたいことはいくらでもある。自分の日々の暮らしが、そうした社会的な活動と、どう関わっているかを自覚できるかに、かかっている。農的な暮らしを送りたいという思いが、農業者の暮らしと、どのように関わるのか、自覚しだいでは無いだろうか。その点、農業者も、消費者も、市民農も、協力してくださる農業者も。等しく同じ方向を目指すものだと。ONODAさんが書かれた、等しく生活者である。という事だと思う。