夏祭りの反省会
昨夜は最後の実行委員会という形で、夏祭りの反省会が行われた。10人ほど集まった。
参加者数を再度、厳密に計算したところ、500名の参加ということだそうです。延べ人数では、550名を越えるという。予想以上の人の集まりだった。これは予想以上で、むしろ来年の縮小も話し合われた。
さまざまな意見があった中で、議論も色々交わされ、結論も出なかった大切な問題は。農の会での祭りの意味づけだった。農の会として、こうした祭りを、負担してゆくことの意味が問われているのだと思う。何故、祭りをやらなければいけないのか。この点の確認が難しくなっているのだろう。
農の会への参加の仕方は、千差万別なのだから、当然、祭りをやりたいという人もいれば、そんなもの入らないという人もいるだろう。しかし、やるとなれば全員で係らざる得なくなるため、その意義を確認できないまま、こなさなければ成らない仕事という形で、負担感のある行事となっている人もいるだろう。
代表の千田さんが提案されている。「市民的な参加の人に、会の運営は担って貰う方向で。」この意見も、ほぼ同質な、問題提起なのだと思う。専業農業者を目ざす人は農の会の中で、農業をしている訳ではない。一人一人が自立して、夫々が、農業をしている。それを農の会という組織にまとまってやってゆこうと言う事自体、普通は無理なことなのだ。
膨らむばかりの運営という、農業と直接関係の無い、雑務的なことは、むしろ必要とする市民農の人が担うべきではないか。私はこういう気持ちではないかと推察している。
夏祭りの意義は、農業と直接関係が無い。こんな気持ちが、農業者の中にあるのだろう。
何故、農業を生涯の仕事に選び、困難な道を歩んでいるのか。この点は、繰り返し問い直さなければならないはずだ。それは一人ひとり違う物であって欲しいが、自分の農業の方向を抜きにして、農業を行う事さえ出来ればかまわない、とはやはりいかない。まして、農の会というかかわりの中にいる以上、「地場・旬・自給」に表現されている農の会の主張は、ないがしろには出来ない。
昨年の収穫祭でも、実は同様の意見が出ていた。直接祭りに係った実行委員と、当日のみ、手伝った人との気持ちの違いがでていた。収穫祭では、安藤さんが、収穫祭の意味づけを繰り返し、周知していたので、あれ以上情報の共有化することは無理だろう。という事に成って、一応は収まったに見えたが、問題は無くなったわけではない。
しかし、問題はどうもそれだけでなかったのだと思う。忙しくて、係りたくても係り様が無い人にとって、自分の位置が確かめられなくなるのかもしれない。
93年に始めた頃は、土地を借りるという事が全く無理だった。その中で、農の会の社会的認知ということが、緊急課題だった。今では社会的認知に基とづき、地域での信頼性は、行政を含め高いものがあると考えていいだろう。
宅配を始めた当初は、宅配先を探すことができなかった。そうした中で、農の会を社会的に認知された組織にするためにあらゆることをやってきたのだと思う。
しかし、今の状況では、土地は一人でも借りられる。宅配だって出来る。そうした中で、あえて、農の会の中で活動する意味は何なのか。問い直されているのだろう。
農の会の一人一人はこの場所で農業を始めることが出来た。これからもやりたいという一人の人に、やれる環境を提供していきたいと思っている。それが、地域にとっても、日本という社会にとっても、必要なことだと考えている。
夏祭りでも、問題になった、個人の暮らしと、農の会の関係は次世代の課題なのだろう。次世代が農の会を不用なものと考えて、止めるのであればそれもいいとおもう。若い人の生活をかけた、挑戦にとやかく言うことは良くない。自ら問題に直面し、挫折し、切り開く体験こそすばらしいのだと思う。