水彩画とは、何なんだろう。

   

水彩画を始めたのは、20年前に山北に移ったころからだ。それでも最初の頃は、スケッチをしても、水彩で絵を描くということなど、考えもしなかった。外で、風景を書き留める為には、携帯が簡便で、便利だと言う事が始まりである。
絵は子供の頃から好きで、図工の時間には水彩で描いてはいた。児童画のコンクールなどにも出していたから、熱心だったのだろう。

さらに、たどれば、幼稚園の時は、クレヨンで描いていた。私は幼稚園に行った少数派の子供だった。
思ったように塗れず、はみ出てしまうので、それを人に見られるのが嫌で、かくして描いていた。幼稚園の先生が、どうしても見せろと言うので、必死に隠していた物を、無理やり剥がすように、強引に取り上げて見てしまった。海の上に船が浮かんでいて、空には太陽が、出ている絵だ。図柄を覚えているのは、そんな絵ばかり描いていたからだ。
すると先生はそれをやたら、褒めるのだ。私は、そんなはずがないのに馬鹿にされたと思い。先生が返してくれるや否や、空をまっ黒に塗った。何でそんな事をするのかと言うので、夜だからだと応えた。
私が手におえない子供だった証拠の一つだ。

小学生になり水彩画を描き始めた。これはもう滅茶苦茶な状態だったが、5年生の時に、転向してきた、松川さんと言われた女の子が、すばらしい、思いも拠らないうす塗りの水彩画を描いた。大人の描くような水彩画だった。しばらくは、その真似をしてみたが、手に終えない方法だと自覚して、今度は油絵のように盛り上げる方法に変えた。

中学に入ると、油絵の具を買ってもらった。色々事情があったのだが、油絵の具を持っているというのは特殊な事だった。これは具合いが良かった。乾かない事には困り、いつも服を絵の具だらけにしていた。私の盛り上げたいと言う願望に、油絵の具は、もってこいだった。不器用ではみ出るのが嫌だったのだが、少々はみ出てもかまわないと言う事で、当時はルオーが好きだった。中学の3年間が一番絵に熱中した時期だったと思う。

そのまま油絵が続き、アクリルに変わったのが、27の時である。フランスから戻った際、アクリルの変えようと考えたのだ。この機会で無ければ変えられないと思い。全ての画材を捨ててしまい。アクリル絵の具に変えた。新しい絵は新しい材料によって生まれる。と思いつめたのだ。

それから、10年ほど、アクリル絵の具で描く。その頃は、材料に対し鈍感で、質感が悪いとか、筆触が汚いとか、色が悪いとか。アクリル絵の具の問題点は、その内科学の力が、解消してくれるとうそぶいていたが、本当のところは、深くは感じていなかったからだ。

水彩で作品を描いてみようと思ったきっかけは、水彩連盟で会員になったということだ。さすが、水彩連盟の会員が水彩で絵を描いていないでは、話にならないと感じたのだ。水彩連盟に出す絵は、大きさが、100号ぐらいになる。縦、163センチだったかな。これを水彩絵の具で紙に描くということは、最初は戸惑いがあった。筆を変えてみたり色々してみたが、その内、慣れてしまった。材料が違うぐらいにしか考えていなかった。

どうも水彩画と言う物が、今まで無かったのではないか。と思い出したのは、それから10年は経ってからだ。水彩と言う不充分な材料ながら、何とか上手く絵画しています。まだそんな領域だと思うようになった。それは春日部洋先生と勉強会を続けてそう思うようになった。この勉強会のことは又別に書くとします。セザンヌの水彩画に惹かれていった。

セザンヌは水彩で描くときには、対象物の本質だけを、メモするように確かめている。物は本質だけでできていないと考えているらしく、油絵になると、本質を覆う複雑な様相を見せる。水彩ではもっとも大切な事だけを描こうとする。これを絵画と考えていたのか、メモだったのかも分からないが。ともかく、必要最小限の本質を司る要素で描くと言う事が、水彩画のあり方ではないかと、考えるようになる。

そうした視点で、今までの水彩画と言う物を見直すときに、随分間違えてきたと思うようになる。装飾物を必要以上に過多にすることで、材質の弱さを補おうとするもの。描写を細密にする事で、画面の維持をしようとするもの。水彩だから、水っぽく情緒的表現に向いていると言う勘違いから、文学的表現に傾斜するもの。水墨の伝統があるので、日本人に向いている材料と言う事で、水彩の誤解が広がる。

水彩と言う材料は、絵画材料の中で最高の材料だと思う。紙という優れた材料と出会い。これから水彩画でしか描けない絵画と言う物が、現れてくると考えている。

水彩画は、ともかくまだ現れていない。参考になるのはセザンヌの水彩画だ。

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