絵で判ったこと
子供の頃から絵を描いていた。好きな絵を描くだけで、評価されるような絵のことを考えたこともなかった。職業にしたいと考えるには、うかつだったかと思うが、何とか自分を売り込もうとしていた20代から30代までの間でも、好きな絵を描くだけだったのだから、評価されないわけだった。まあ、それで良かったのだが。
絵が好きな子供が、どう言う絵を描くのが一番楽しいかと言うことで、ずーとそのまま75歳まで来てしまったのだ。好きなことを捜すのが子供の仕事なのだと、父から言われて、結局絵を描くことが好きらしいと決めた。どうも何となくみんなが描く絵と違うなとは思っていたが、最近になって、その理由にやっと気づいた。
公募展やコンクールなどで評価されている絵画というものへの関心が無かった。そうした絵が好きだとは到底思えなかったのだ。庄田常章さんという金沢出身の方がおられた。弟さんが金沢大学の哲学科の人だった関係で、弟さんから紹介されて、東京で親しくさせていただいた。
庄田常章さんが絵描きになる道を、ハウツー本のように教えてくれた。その方は様々なコンクールに出品して評価されていた。ただその人の描くものが絵だとは思えなかった。現代の写楽とキャッチフレーズを付けていた。どうすれば評論家から評価され、コンクールで受賞できるかをこんこんと語っていた。
しかし、私にはそういう興味は無かったし、そういう能力も無かった。絵が好きで描いていれば、それで良いというほうだった。その頃公募展やコンクールに庄田さんの半分命令で出品はしていた。しかし、全く評価されなかった。今描いている絵と大きくは違わない絵だったと思う。
庄田さんに絵の売り方も教えて貰った。売れる絵を描くのは難しいが、売れている絵を描くことにすれば簡単だという話だった。画廊の方では絵がいくらかは売れる方で、個展は毎月のごとくやらして貰っていた。いくつもの画廊に絵を預けていて、毎月絵は売れていた。
だからこのまま、絵描きとしてやれるような気もしていた。なるほど、画廊で売れる絵にはそういう傾向があり、公募展やコンクールの絵とは違った。庄田さんの絵は売れないが、コンクールでは評価されていたと言うことなのだろう。絵描きになりたいともがいた時代である。
あるときお前はもっと面白い絵を描くべきだ。いくら言っても面白い絵を描かないのだから、もう縁を切ると言い渡された。どうも面白い絵というのはその頃はやり出した、ヘタウマ風の絵らしかった。それ以来一切の付き合いがなくなった。しばらくして庄田さんは病気をされて金沢に戻ったと聞いた。
公募展向きの絵があると言うこともあまり考えなかった。要領も悪かったし、何故コンクールなどで評価されないのかも判らなからないまま、絵を描いていた。絵は自分が描きたいように描けば良いと考えて居た。たまたまそんな私の絵を評価してくれる画廊の人が居たので、何となく間違っていないような気がしていた。有り難いことだったのだ。
急速に絵が売れなくなった。そして絵というものが分からなくなった。苦しくなり、絵が描けなくなった。自分の制作したものを売るというのは怖いことだ。一切をやり直すつもりで自給生活に入り、油彩画やアクリル画の道具は捨てた。気分が良いときに、少しだけ水彩画を描いていた。
そして絵描きになることを止めた。文春の個展を最後の個展として行い、終わった。時代の変わり目だった気がする。今振り返って考えてみると、バブル期が終わったのだ。山北で自給生活を始めたので、銀座にも行かなくなった。絵描きの知人とも会うことも無くなった。
結局描く絵に間違いも、正しいもないのだろう。一度描いたものは、修正すると言うことはしない。一度描いたと言うことは、後に成っておかしいと思ったとしても、それを直すというようなことは無意味なことだと考えて居る。おかしなことを描いてしまった自分というものを考えてみるべきなのだ。そのおかしなところを残した絵にして行く。
水平線を描いてまっすぐに描こうとして曲がってしまった。しかしそのとき曲がった水平線の方に意味があるのであって、消しゴムで消して直すというようなことはまるで無意味なことだ。それよりも、曲がった水平線に合わせて、その続きの絵を描いて行けば良い。
描いていれば様々なことが頭に浮かんでくる。その浮かんできたことはすべて描いてみる。描いて絵が良くなるとか、悪くなるとか言う問題も絵にはない。浮かんできたと言うことが最も大切なことになる。そうして、描いて出来た絵が、自分の身体が描いた絵だと考えて居る。
その絵が自分とはあまりに違いまるで人が描いたとしか思えないこともある。自分とほど遠い絵であれば、むしろそんなことが何故起きているかの方を考えてみなければならない。絵を描くと言うときには一切を身体に委ねるばかりだ。そして出来た気になる絵を眺めているしかない。
そのうちに自分の絵がどこに向かっているのか。自分の描き方のどこが身体化されていないのかが見えてくる気がする。そして気持ちを整えて、改めて絵に向かう。それだけの繰り返しである。それが良いとか悪いとか言うことはない。良い座禅も悪い座禅もない。ただひたすらに絵を描いているわけだ。
大学の同窓会展を企画したときに、たまたま、端名清さんという方が、金沢大学の先輩だった。親しくさせていただいた。端名さんが水彩連盟に出したらと進めてくれた。水彩連盟という公募展を見たこともなく、出すようになった。その頃はアクリル絵の具で絵を描いていた。まるで油彩画風なものだった。
水彩連盟は公募展と言っても、水準が低いので私のような好きに絵を描いているものの絵でも受け入れてくれて、すぐ会員になった。居場所が出来たのは良かったのか悪かったのかは判らないことだが、そこには絵で生きようという人はほぼ居なかった。ある意味、そういう世知辛くないところなので居られたとも言える。
この頃絵が描けなくなった。そのことは何度も書いたので。そして自給自足生活に入ろうと決意した。そして油彩画を止めた。たまたま水彩連盟にいたと言うことがあり、水彩画でやり直しをした。さらに、公募展とか、コンクールとかは考えなくなった。全く人の絵を見なくなった。絵のことを考えることなく、ともかく好きな絵を捜していた。大きな絵もだんだん描かなくなった。
その頃春日部洋先生と絵を描きに行くことになった。水彩連盟の三橋さんの紹介である。春日部先生は油彩画の画家ではあったが、水彩画が好きな人だった。若い頃には山下充さん、安野光雅さんなどとともに、水彩連盟に出品していたこともあった。水彩連盟が出来た頃には輝く時代があり、多様な人が出品していたようだ。
絵が描けなくなっていたこともあって、どちらかとえば気分転換のような気持ちで先生の写生旅行に同行した。そして、絵を描くことをずいぶんと教えていただくことになった。身体で絵を描くと言うことは先生から学んだことだと思う。先生は絵を描き出す前の気持ちを大切にされていた。
先生が亡くなられるまで、ずいぶん一緒に描かせていただいた。そして月に一回水彩画の勉強会をしてくれた。その月に描いた絵を持ち寄り先生が公表してくれる。この勉強会が水彩人の勉強会に成ったのだと、自分の中ではそう思っている。そして水彩連盟から、退会勧告をされ止めた。
そのことはどうでも良いのだが、水彩人という絵のことが話せる仲間が出来たのは良かった。何とか続けて行こうと思っている。絵のことが少し判った気がしたので、文章を書き始めたのだが、どうも文章に書いてみると何も判っては居ない。相変わらずである。