戦争の歴史認識

      2025/05/19

沖縄戦に関する歴史認識について、西田参議院議員の発言をきっかけに、様々に言われている。その認識が分かれるところは、日本軍と沖縄の住民との関係である。沖縄に暮らしていると、日本会議などの歴史認識が、日本軍の賛美に基づき、日本軍が沖縄で行った、犯罪的行為が否定されていることが実に気になる。

それは沖縄が日本とは違う歴史を持つ国と言うことだ。首里王朝という独立国家であった長い歴史をもぅった、日本とは違う独立国の歴史から始まっている。首里王朝は独自の文化をもち、何百年の国家としての歴史を持つ国であった。私が暮らしている石垣と言うことになると、さらに複雑な関係があり、日本との距離感が遠い。首里王朝との戦闘に敗れ、支配された地域と言うことになる。

首里王朝は独立国として、中国や島津藩や江戸幕府に対して、朝貢外交を行うことになる。朝貢外交と言うことから、独立性と言うことが問題になるのだが、500年前の時代では、離れた諸島国家と言うことでは、空間的な距離が移動が困難で、国家を絶対的な統治する存在として、支配し管理すると言うことの意味が、中国にも、日本にもなかったと言える。

一応朝貢する配下の国と言うことで、従う独立国家と言えば良い存在である。厳密な意味での支配関係は薄かった。なかったと言える。沖縄は交易をする存在として、江戸幕府にも、中国にも重宝されていたと言うこともある。当時の海には日本系の海賊倭寇が徘徊し、中国沿岸地域が荒らされていた。それに対応するために、首里王朝が利用されたと言うこともある。

首里王朝は島津藩に支配されることになる。次第に海運技術が進み、人を送り、離れた島を支配できることになってきた。支配すると言うことは、税を徴収する収入源にしたわけだ。さらに島津藩は江戸幕府に支配されることになる。石垣をはじめとする八重山地方は沖縄本島からも離れていることもあり、2重3重の支配を受けることになる。

いずれにしても、島津藩が沖縄を支配する以前の時代の国際関係では、東アジアの勢力図においては、沖縄の支配がそれほど重要な意味合いがなかったと言える。江戸時代になって年貢を取り立て手、利益が吸い上げるという支配関係を維持するだけの力が醸成されてきた。

オランダやスペインやポルトガルイギリスの植民地支配も、日本という国と戦うためにはあまりに距離が遠かったのだろう。日本という国家体制が整っていて、簡単にはつけいる隙がなかったと言うこともある。支配ではなく、交易して利益を上げると言うことが選択されたと言うことになったのだろう。

もちろんもっと複雑な要因があることは想像されるが、大まかに考えれば、日本と沖縄の関係はそうした歴史に始まる。その後の日本は江戸幕府が明治政府という革命勢力に敗れ、明治帝国主義が模索されることになる。このときに沖縄はまだ、支配される属国という立場ではあるが、独立国であり、首里王朝は国家運営を行っていた。

その首里王朝を軍事的に威圧し、従わせ日本国に一方的に編入することになる。琉球処分という嫌な言葉で、書かれているところだ。琉球王朝が中国に対しても朝貢する関係があり、2つの国に所属する国だった。これを日本にして中国からの支配を明確に切り離すことを行った。

ここに明治帝国主義国家の沖縄支配が始まる。それは朝鮮半島や樺太や台湾という植民地とある意味同種の感覚で、沖縄を見ていた側面があったと思われる。明治の幼稚な西欧をまねた帝国主義が、背伸びをして脱亜入欧して行く姿である。

沖縄に暮らしていた人々は、島ごとに歴史も来歴も異なるのだろうが、民族的には日本人に一番近かったことは確かである。文化的に、言語的に、DNA的に日本民族と同類であると言えた。しかし、一方では、沖縄は台湾や朝鮮と同じように、日本の他の藩とは異なる、別の独立した国の人という側面があった。

このことが、明治帝国主義下の日本で沖縄差別が始まった要因である。日本語ではあるが、通訳なしでは話すことも出来なかったのだ。この点では全く現代の日本人の意識と100年前の日本人とでは違う。そもそも帝国主義下の日本は民族意識の高揚のため、アジアの他の民族を一段下に意識しようとした。

この沖縄の人々を植民地の人たちやアイヌの人たちと同じ扱いをした。それが太平洋戦争中の悲惨な差別的扱いが起こった原因になったと考えられる。日本本土から沖縄に来た日本軍の軍人兵隊の中には、差別意識を持った人が多かったと考えて良い。それは当時の日本人一般が植民地の人、沖縄の人、アイヌの人を皇国思想の元で、劣等民族意識があったのだ。

差別があるなかで、アメリカとの地上戦が行われた。沖縄の住民も総動員令が架けられ、日本軍に協力することになる。しかし、日本軍の兵隊の多くが、沖縄の人と言葉も通じにくい関係なのだ。良く沖縄の人たちの気持ちが理解できなかったはずだ。

そして、沖縄の人たちを日本人として信頼する同胞という意識ではなかったのだ。圧倒的に強力な米国軍が上陸し、徐々に日本軍を追い詰めて行く。住民は逃げ惑い村を離れ山野を徘徊することになる。米国軍の捕虜になる人も出てくる。住民は捕まえて一カ所に集めたわけでもなく、また戻されたりしている。

こうした住民の動きから、日本軍は住民が日本軍の情報を米国軍に話すと考えるようになる。日本軍は逃走しながらもゲリラ攻撃を繰り返し、徐々に追い詰められ玉砕的状況になって行く。捕虜になるよりも自爆する道を選択する思想を教育されていた。

日本軍は次第に住民にも自爆をするように手榴弾を渡すようになる。それは日本軍の作戦の間違いである。この時点では沖縄戦を本土決戦の時間稼ぎのように考えて沖縄が沖縄が玉砕をしてもかまわないから、住民がいなくなってもかまわないから、時間を稼ぐ希望のない戦いを続けたのだ。

その中で親が子供を殺さざる得ないような悲惨な事件が起きている。子供が米軍に捕まるくらないら。子供が足手まといになる。あるいは心中をする決意をする。様々な思いで、子供を親が殺してしまう気持ちになっていった。そこに追い込んだのは、間違った戦争をし、戦況を見誤った日本軍の愚かさである。

ひめゆり学徒隊は、日本軍に従い看護などの後方支援をするために、結成され日本軍とともに戦った女子学徒である。日本軍は中等学校や師範学校などの10代の生徒まで戦場に動員しました。「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」からも、生徒・教師240名が看護要員として動員され、そのうち136名が死亡した。

そのひめゆり学徒隊の240名の当時の思いと必死の戦いを、何故西田議員は軽んじた発言をしたのだろうか。西田議員は特攻隊員も同様に軽んじて語るだろうか。つまり全くの創造力の欠如である。沖縄で起きた地上戦のへの想像力が働かない。自分の狭い歴史観から、沖縄を遠望している。

沖縄差別の心情が西田議員には宿っていると感じられる。これが日本会議の沖縄は日本の防人の島に慣れの発言につながっている。今また沖縄に対中国のミサイル基地を配備して、沖縄を前線基地として、時間稼ぎの場にしようという発想である。それは日本をアメリカの防人の島と考える裏返しである。

結局の所なくなったはずの沖縄差別が、こういう所でよみがえってくる。何故、沖縄の基地負担ばかりが大きくなって行くのか。日本の平和主義に基づく外交努力は、具体的な行動は何もない。アメリカに従わされるばかりで、中国との平和的な関係の構築を表立って出来ないことになっている。

この点でも西田議員はアメリカの代弁者になっている。日本の右翼主義者は何故か、アメリカの手先に成り下がる。要するに日本の右翼は意気地なしなのだ。自分の足で立とうと出来ない輩が、アメリカの威を借り、お金を貰い、沖縄県民をだまそうとしているのだ。

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