世界秩序が不安定化している

   

 

 

 ウクライナとガザで戦争が続いている。3年も経つのだが、終わることがない。ガザでもイスラエルでも悲惨な殺戮が続いている。もういい加減にしてほしい。今度はパキスタンとインドが衝突しそうである。世界はおかしなことになっている。

 日本は戦争に対して何も出来ないし、何かをしようともしない。日本は海外の戦争どころか、トランプ関税で、経済戦争に巻き込まれてもがいている。米国の同盟国に対する裏切りを日本は受け入れなければならないのだろうか。

 世界が崩壊寸前の新しい局面にあるのは、誰しも理解せざる得ないところだろう。その要因は大きくは2つある。一つがコンピュータ-革命で世界の経済基本が変わり始めていることにある。先端技術が一気に変化し普遍化してゆく世界。

 もう一つが資本主義の競争社会が限界に達したこと。国家資本主義と自由主義経済の競争で、国家資本主義が有利な展開になったのだ。独裁的国家運営で世界での経済競争に勝利する。その結果、世界の序列が変わり始めている。

 コンピュター革命は後進国と呼ばれた国にとって、逆転の機会になった。日本やドイツは出遅れて、社会インフラとしてのコンピュター革命ができないでいる。マイナンバーカードの導入を見ていると、日本はまさに後進国化していると感じざる得ない。

 資本主義が限界に達したのは米国のあがきを見るとよく分かる。なりふり構わず一国主義を行い、世界を恫喝している姿はみじめなものだ。米国自ら追い込まれてゆく姿

。中国の国家資本主義との経済競争に勝てないのだ。労賃が6倍も違えば、当然のことだ。

 第2次世界大戦後の80年間、米国が軍事力と経済力で、自由主義世界のリーダーとして、その秩序と自由貿易を維持してきた。日本もその武力の下で、軍事支出を抑えて、経済力を増強し、世界で2番目の経済大国にまで登った。

 しかし、中国をはじめとする、新しい成長の波が日本を停滞させている。日本だけではない。米国も窮地とみて、正義を捨てた。なりふり構わない醜い姿をさらけ出し、泣きながら弱いものをいじめている。当然正義のない行動は、世界がアメリカとの距離をもつだろう。転落を早めるだけになる。

 日本の社会は進路を見失い、目的地を見いだせない状況に陥った。日本国家は舵を失い流されるままのようだ。その象徴が米の価格が2倍になるという異常事態だ。しかも、この異常事態に政府は一年近くも対応策が打てないで居る。

 米価のことは決定的なことではないが、何か社会の変質が始まっていると思わざる得ない事件だと思う。社会が機能不全に陥っている。政府の力が弱まり、農協の裏での反逆が始まり、政府にはお米の生産量や、貯蔵場所や貯蔵量すら、把握できない事態なのだ。

 日本社会がおかしなことになり始めたという感触は多くの人が持ち始めているはずだ。テレビを見ると、その馬鹿騒ぎのくだらな文化の文化の劣化にはあきれ果てるばかりである。日本の映像文化は世界から、遅れた。

 文化全体の衰退が始まっているとしか思えない。歳をとって新しいテレビの世界を受け入れがたくなっていると言うこともある。トランプはついに、映画まで関税を100%かけると言い出した。文化に関税をかけるという、あきれ果てた劣化だ。

 絵画の分野はある程度状況把握が出来るが、ほぼ壊滅状態である。作家とか、画家とか呼べるような芸術家はいなくなった。状況が変わったのだろう。商品芸術の時代だから、商品絵画はあるのだろうが、芸術とは言えない物だけがまかり通っている。絵画文化の衰退は明らかだ。

 何もひがみで書いているわけではない。歴史的に絵画衰退期となづけられる時代であることは、次の時代の人の目には明らかなことであろう。そうでないという人が居れば、是非、その事例を教えてほしい。自分の目で確認させて貰う。

 アニメや漫画の世界には生きた表現がまだある。絵画にはない新鮮な表現が生まれている。人間が芸術を生む力を失ったわけではないということだろう。過去の芸術では収まりきらない、社会の変化が起きていると言うことになる。

シシ山崎さんの『虎と翼』のタイトルバックは素晴らしいものだった。流れる音楽も良いが、この映像には度肝を抜かれた。すばらしい。新しい時代を感じた。日本の伝統と、次の時代の予感のようなものが混在している。

動いている時代だからこそ私絵画を目指している。社会に対する表現としての芸術ではなく、行為を芸術的行為とするあり方である。確かに逃避である。逃避する以外に芸術としての絵画の行く場はない。資本主義は芸術を商品化して終わろうとしている。

 自己表現芸術の衰退と考えて良いのだろう。その理由は自己存在の不透明さになる。ビニールに囲われたような不明瞭な自己存在。表現すべき自己がないのだから、当然自己表現芸術は存在しない。

 どこに自己存在は消えたのか。そもそも自己存在などないと、現代の知性養老先生は言われている。そうなのだろうか。人間が自己存在を想定できない時代で良いのだろうか。人間は近代を経て、自己の確立を目指したのではないのだろうか。

 自分とは何かが。自己表現の前提である。自分が分からないのであれば、表現のしようもない。自分が生きるという実感が自己だと思う。その実感が薄い。それは行為に基づく自己確認が行われないからだ。

 自分の食べるものを自分で作る。私はここに立ち戻り、自分の命を確認した。生きるためには食べなければならない。その食べるものを自分の手で作ることで、自分の命を自分でつないでいると言うことを体感した。人間はここから始まると思った。

 食べ物を作ったことのない人には、生きていることの実感が失われるのだろう。だから田んぼを続けている。絵を描くときには田んぼをやるように、田んぼをやるときには絵を描くように。つまり、絵を描くと言うことも、田んぼをやると言うことも、自己確認の行為なのだ。

 大げさな話になってしまったが、世界は混沌としている。明日が見えない不安に取り巻かれている。トランプが現われなかったとしても、世界の極右化が起きている。ポピュラリズムが広がる。向かう先のない世界が待っている。

 

 

  

Related Images:

おすすめ記事

 - 自給, 身辺雑記