岸田さん日本人をお願いします。

   



 自民党岸田政権が出来るようだ。どうかなとは思うのだが、それでも新しい政府が少しでもよくなることを期待しないではいられない。アベ・スガ政権と日本の不幸の原因だった。政治と官僚を人事によって、忖度の国にした責任は重い。コロナ対応が不十分だった理由は、国を思うより、自分の立場を考える人ばかりが出しゃばったためだ。

 日本は弱体化した。弱体化などしていないという人もいるようだが、バブル崩壊後一貫して日本は弱体化してきた。露骨な能力主義が日本人をダメにしたと思う。日本を支えた力は、縁の下にあった。自分が目立たない支え役になっても、全体のことを考えられる人がいたからだ。

 ものづくり日本と呼ばれ、世界を風靡する魅力のある新製品を作り出す事が続いてきた。原発事故をきっかけに、再生可能エネルギーの普及と開発を、世界において日本がリードして行けるのではないかと思った。ところが、その開発競争に完全に敗れた。そして、いまさらながら原発を引きづっている。それは既得権の勢力が自分の利益だけを死守したのだ。

 新しいモノづくりが出来なくなっている。アベノミクスの肝心かなめの第3の矢は飛ばなかった。昔は様々な新しい機能の電化製品が日本から発信されていた。もう新しい電化製品などいらないというような気分に日本人はいるのだろうか。それは正しい感覚に日本人が成ったのかもしれないのだが。

 昔は3種の神器とか言い、1950年代「冷蔵庫(れいぞうこ)」「洗濯機(せんたくき)」「白黒テレビ」の三種類! 1960年代半ばには、「カラーテレビ(Color television)」、「クーラー(Cooler)」、「自動車(Car)」が新たな“三種の神器”

 どうだろうか今の日本にはもう三種の神器と言われるほど特別に欲しくなるようなものは存在しない。どうしても家族が力を合わせて購入目標にするような物がなくなったと言うことだ。私の家でテレビを買えたのは1964年になってからだった。

 「24時間働けますか。」と言うコマーシャルが流れていた時代があったのだ。やたら働いて郊外に一軒家を購入する。それが幸せの目標。そんな時代の中で高度成長は起こる。どれほど無理をしても、一家の目標を達成するために心を合わせて頑張った。

 高度成長というのはその背景に公害とよばれる、破壊行為が承知で行われていた時代。とんでもない破壊行為まで含み込んでモウレツに進んでいたわけだ。目が覚めたと言うこともある。国そのものが老齢化したと言うこともある。昔はイギリス病とか言われていた。

 そんなに頑張らなくても良いじゃん。と言うような社会の空気である。まだまだ、そうじゃない発展途上国もある。中国は今でもバイタリティーに溢れている。そういう国と国際競争を行えば、日本が勝てるとは到底思えない。それでいいと思う。経済競争ではないところに、文化国家としての日本に転換してゆくべきだ。岸田さんにそういう発想が少しはあるのだろうか。

 結局の所、日本人の活力が失われつつあるのではないかと思う。田中角栄氏とスガ元総理大臣とを比べると、同じたたき上げの農家出身の苦労人政治家と言われながらも、エネルギー総量がまるで違う。総理大臣の降ろされ方がまるで違う。何でも障害物を押し切ってしまうブルトーザーと進まないフィットネスバイク ぐらいに違う。

 確かに大きく違ってきているのだが、実は今時の日本人の若者達の方が昔より優れている。スポーツ分野でもイチロー選手や大谷選手ほどの人は昔はいなかった。スポーツは見えやすいので、よく分かるわけだが、日本の運動選手は随分と頑張っている。

 スポーツ選手ならどれだけ努力してもその人自身のためだから、ブラックなどとは言われない。24時間自分のためにかけている。欠ノ上田んぼでは良く冗談で、ブラック田んぼだと笑った。好きでやることなら、どれだけ頑張ってもなんの問題が無い。それでむしろ元気が出る。好きなことに挑戦している人は、同じ日本人でも違うのではないだろうか。

 目標をもってやりたくてやる人間と、やらされてやっている人間とではまるでちがう。やりたいことを見つけられた日本人は、この時代の中でも凄い力を発揮している。一人一人の日本人がどうやってやりたいことを見つけられるかではないだろうか。大谷選手のホームランでどれだけ励まされたことか。

 日本はコメ作りの国であった。大半の人が一次産業に従事していた。物を作る現場を見ながら人間が育っていた。現代は仕事の現場から子供たちが離れた。たとえ、リモートワークでお父さんやお母さんが家庭で仕事をしていたとしても、大工さんや農家や漁師とは違う。

 働いて、ぞんぶんに生きるという親の姿。人間の働く実際の姿を子供は見る必要がある。成長の過程で汗水たらして熱中して働く姿を目に触れる機会が少なくなっているのではないだろうか。将来の自分がどんな仕事を好きになり働いてゆくのかが見えない時代。

 一次産業から人間の暮らしが遠のいたのだから、その分教育は人間が働く、物を作るという事を取り組む必要がある。岸田さんはそういう事を考えてくれるだろうか。教育は相変わらず、知育偏重である。身体を動かし物を作るというような、人間本来の姿が教育から抜け落ちている。

 岸田新総理大臣には是非とも、教育改革に取り組んでほしい。英語教育も、道徳教育も初等教育では不要である。その分身体を動かす「作務の教育」に取り組んでほしい。そうしなければ、子供たちが人生をかけても良いと感じる好きな働き方を見つけることができない。

 と言いながらも、実は政治というものを諦めている。新総理大臣が登場して期待できないのは寂しい。教育に作務が取り入れられるどころではない。国際競争力のある人材という事で、IT教育という事ではないだろうか。働くことの基になる活力は、好きなことで働くという事にあるのを忘れてはダメだ。

 この国の教育では好きなことを見つけることは期待できない以上、それぞれが身体を動かして見る以外に、好きなことの発見の活力は生まれない。日本人は好きなことを見つけることが、生きることにおいてどれほど大切なことかを、もう一度考えてみるほかない。それ以外に国の活力はじり貧になる。

 好きなことをしていて、生きていけるわけがない。こんな風に諦めが支配している社会。絵が好きだとしても、絵を描いて生きてゆくことはできないと諦めてしまう。世の中そんなに甘くはないと、大半の人が考えているだろう。食べれなくても好きなことをやり抜きたい。こんな考えは甘いという事になる。

 それは絵を販売して職業にしなければ、好きな絵を描くという事にならないと思い込んでいるからだ。好きなことで生きるというのは、絵が売れるとか売れないとかとはまるで違うことなのだ。職業画家が好きな絵を描いているとは限らない。好きなことさえできるのであれば、他のことで働いて収入を得ることであるとしても、好きな絵描くための喜びのある仕事になるという事だ。

 好きな農業が出来るのあれば、収入が少なくても満足して生きることが出来る。先ずは好きなことを見つけること、必ず道は開けると信じて大丈夫だ。絵が売れるというようなことは考える必要はない。本当に好きでやっていれば、何とかなるとがむしゃらに進むことだ。岸田さんに期待するのは見当違いなのだろうか。

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