シャンプーも石けんも使わない。

   

 


 石垣島では飛行場に入るとき北からと南からの二方向がある。今回は北からの白保と大里の間の採石場付近を飛行機が降下して行った。

 もう何十年も石けんもシャンプーも使わない。そもそも子供の頃から、体を石けんで洗うなどと言うことは母親に使うように言われてた時だけだった。どだい天邪鬼の子供で、言われるとやりたくなくなるのだ。しかも屁理屈ばかり言う子供だから、石けんなど使わない理由をあれこれ考えた。

 最近石けんでウイルスが除去できて、洗えばきれいになるとコロナで盛んに言われるが、それでも石けんで洗うことはし無い。ウイルスが無くなるくらいだから、皮膚の大切な物も失われていると考えている。皮膚には様々なものが体の中から染み出てくる。油のようなものは老廃物と言うことでは無い。皮膚を保護するものだ。その脂を何度でも取り除いていれば、皮膚のバリア能力はなくなるだろう。

 シャンプーなどと言うものは,合成洗剤と言われるようなものと同じだろうと思っている。ママレモンで頭を洗うのはどうかと思うわけだ。シャンプーは何かでよほど頭が汚れたとき以外使ったことがない。だからといって病気になったことは無い。むしろ使わないから免疫力が付いたのではないかと思い込んでいる。

 しかし、この事実はいままで余り書いてこなかった。それは汚らしい人間だと人から思われるだろうと恐れていたからだ。臭い奴だとはさすがに思われたくは無い。世間では石けんを使わない奴など、エンガチョだと思っているに違いない。人からどう思われようが余り気にしない方とは言え、あえて頭をシャンプーで洗わないというようなことは口にしないで来た。

 ではどうしているかである。風呂にはよく入る。石垣島にいるときには朝晩2回は入る。小田原にいるときでも夜には必ず風呂に入る。サウナに行ける頃にはサウナに行くのが,楽しみであった。風呂に入れば半分解決である。

 あとの半分は風呂に入り、お湯で濡らしたタオルで体はゴシゴシこする。頭もお湯でゴシゴシこする。これだけである。何故石けんやシャンプーを使わないのかには理由がある。汚れを落とせば保護膜も落とすと考えているからだ。昔の人は体など滅多に洗わなかったのだ。体を洗うと言うことの方が特別のことだ。

 人間の表面は体の中から染み出てくる油脂分で覆われている。これが体を保護している。この保護膜を洗い落としてしまうなど馬鹿げたことなのだ。そういうことが皮膚の炎症を起しているかもしれない。もったいなくて出来ない。しかし、そのままにして置くわけにも行かない。そこでお湯で流れ落ちるぐらいは落とす。

 今日は随分汗をかいたと思う日には,お湯タオルで何度もゴシゴシやる。別段これで臭くなるわけでも、痒くなるわけでも、薄汚れて見えるわけでも無い。頭が痒くなるとか、脚が痒いとか言うのは石けんやシャンプーで洗いすぎるからだ。まあ、そもそも見た目の清潔感などない方だから、汚く見えるのは地だからこれは仕方がない。

 歯磨きも一緒だ。そもそも歯磨きと虫歯は関係ないという説すらある。しかし歯磨きはしないよりした方が良いが、しかし歯磨き粉は無駄だし、不用だ。どうしても使わ無ければすっきりしないというような、悪い習慣が付いてしまった人は、もう米粒以下の歯磨きをつけてみがけば良い。

 歯ブラシは電動歯ブラシにしている。これで丁寧にみがいている。歯磨き粉などつけなくともすっきりする。何故、世間では石けんやシャンプーや歯磨きを使うようになったかと言えば、テレビの影響である。何の意味のないものを騙して売るのがCMである。

 報道にとってはスポンサーが神様で、視聴者は金の種だから、騙そうが何しようがかまわないと覚悟を決めている。テレビや新聞では間違っても歯磨き粉は無駄とか、シャンプーは頭皮を傷めて、ハゲになるなどと言う情報は流さない。神様の逆鱗に触れるからである。

 しかし、一億総白痴化現象だから、大半の人はシャンプーは髪に良いなどと思い込まされている。自分で考えてみるというようなことが無い。少し頭を使えば、頭が痒いのはシャンプーが皮膚の油脂を取るからだくらい分かりそうなものだ。

 合成洗剤が頭の中まで染み込んでしまい、頭がやられているのかもしれない。手も洗わなければ、だんだん丈夫になる。今啄木のようにじっと手を見たところ、特別に問題など起きていない。71歳の当たり前の状態である。嫌もう少しましかもしれないと思っている。これは60年間石けんを使わないで来た御陰だろう。
 
 皮膚のために何していないかと言えば、ニュートロジーナという塗るものを風呂から出たら月に一回ぐらいはつけるときがある。泥仕事で手がカサカサになったときだ。これは面倒なでついでに髪の毛にも二ヶ月に1回ぐらいはつけることがある。別段意味は無いがついでだからだ。その結果ハゲにはならないし、抜け毛がひどいとか、痒くて仕方がないなどと言うことは全くない。

 ニュートロジーナなを何故使うようになったからと言えば、使って悪くなかったからだ。ノルウェーのバイキングが北極海の吹きさらしの海仕事の荒れた手に使っていたという、効能書きにやられた。多分そうかもしれないが、現代のニュートロジーナにそんなたいそうな成分が入っているとも思えないが、使って悪くないのでこれだけは使う。

 結果については鏡というものを見たこともないのでよく分からない。ただ、手については今確認してみたが、使うようになる前より良いようである。ともかく長年の石けん不使用の効果はある。コロナでも石けんを使わなかった代わりに、家の外では何にも触らなかった。

 触らなければ入れないような所には基本行かなかった。体で押して入るとか、タオルで触れるとかしてきた。知らないところではそれくらい用心した。タッチパネルは本当に困った。もうそう言うところには行かないことにした。石けんを使わないのだから、必要な注意である。アルコールが置いてあれば消毒は仕方がなくした。回りの方の安心感のためである。あれもしたくは無い。

 汚いはきれい。きれいは汚い。・・・マクベスに出てくる言葉らしい。コロナで汚いは汚いになることを恐れている。汚いをただ汚いにしてしまえば失われるものが余りに多い。美とか正しいとか言うものは,対照的なもので一方から見ると失われるものがある。

 汚れているということは実は保護していると言うこともある。ほどほどに汚いくらいが良い。こんな考え方はコロナの時代では危険思想と言うことになる。土壌は植物にとっては母なる大地である。土壌は汚いを含んだ総合であるから豊なのだ。土壌には病原菌が無数に存在する。土壌だから豊なのだ。

 何でも絵に結びつけてしまうが、絵というものは美しいものを美しく描くようなものではない。汚いきれいを越えたものを描いている。きれいにとらわれてしまうと、自然界の総合性が見えてこないと言うことだ。何でも一面的にとらえるのはつまらない。
 

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