動禅体操の少しの変化

石垣に居るときには早朝の動禅体操を行う。そして1万歩の歩行禅を欠かしたことが無い。しかも、いやいやとか、我慢してとか、努力としてとか、そういうのではなく、やりたくてやっているのだから驚く。ぐうたらでも続けていることで、何とかなるようだ。
自慢げに書いたが、小田原に行けば全く出来ない。情けないことだが、農作業で精一杯で体操の余力が無いと言い訳をしている。それだけではなく、石垣島のコロナ生活がそうさせている。変わろうと思えば環境を変える以外にない。
動禅体操は明るくなる頃の60分である。始めた時間にはまだ暗く、終わると明るくなっているという時間が一番良い。以前は50分だったのだから、少し長くなった。やることも増えたこともあるのだが、前よりもゆっくりやるようにしている。
基本速さは一つの動きで吸気なら一回とする。呼気でも一回の動きとしている。動作一回の呼吸をゆっくりすれば、自ずと全体がゆったりとして動く。全体の時間が掛かる。余り長いのも困るのだが、1時間に収まれば良しとするしかない。
1,スワイショウもできるだけゆったりと腕を振る。背骨の周りの筋肉をほぐすという感じで、できるだけゆっくり動く。3分ぐらい行う。60回から70回ぐらいである。回数は適当でこだわらない。充分背骨回りをほぐしたと言うぐらいにしている。スワイショウは動禅の心境に入る導入体操である。
2,八段錦は長くて、19分から20分かかる。八段錦は呼吸法なので、これこそ自分の限界まで一呼吸を細く長く行う。日常の呼吸と言うよりも、禅の呼吸と言うつもりで行う。禅の呼吸とは心が行う呼吸と言えば良いのだろうか。静かな細く長い呼吸である。体の動きはすべて呼吸を助けるための動きとする。
吸気の時口は閉じて行うのが普通かと思うが、私は最後に口を開いてもう一息吸う。口を開かないでも限界まで吸える人はそれでいい。もう吸えないと思っても口を開くともう少しは吸える。吐く場合も最後まで吐いたつもりでも口を開けるともう少し吐ける。できるだけ長くやりたいので、口は開けてしまう。もう少し熟達したら、口を閉じたまま限界まで出来るようになるかもしれない。
3、太極拳もゆっくりめにやるようにしている。13分である。ユーチューブなどでは10分ぐらいが多い。中国のものではさらにさらに早い。遅ければ遅いほどいいと思うので、中国という国の慌てようを見ているようだ。。速い動きでは心まで届かない。遅くなければ心がこもらない。形だけ動いても無意味だと思う。
ゆっくり体重移動をすると、体幹が安定していないと動くが崩れてしまう。早く動いてしまうと、正確な体重移動でなくとも通り過ぎてしまう。自分の重心がどこにあるかを意識しながら、緩やかに力まず動く。
他にもすこし変化をしている。より身体に良い方を探している。股関節が衰えて、痛み始めているので、進行させないようにと考えている。放下体操など禅的体操から股関節に良いものを取り入れた。また、体幹体操を禅的体操の立ち魚体操に変えた。
1万歩の歩行禅が出来ている。1万歩歩いても股関節が痛いというわけではない。ただ右腰に違和感があり、悪くなりそうな様子なので、筋肉を鍛えているという所だ。予兆に早く気付けば、手立てはある。だから身体内観は必要だと思っている。自分で自分の体を感じてみる。人間ドック以上に不備なところに気付けるはずだ。
千日回峰行は山の中を限度に近い速度で歩き続けるようだ。日本古来の修験道と仏教が重なったのだろう。中国にあった修行法とも思えない。足下の悪い山の中を歩いてみれば分かることだが、歩くことの注意以外考え事などしていられない。歩くことだけになる。ここに意味があるのだと思う。
天狗信仰というものがある。南足柄にある道了尊最乗寺は曹洞宗の寺院であり、天狗の寺である。最乗寺は修験道と禅の修行が融合した寺院である。師であり祖父である黒川賢宗は若い頃この寺で修行したと話していた。箱根神社の信仰などとも関係があると思われる。久野にある坊所とか、天子台の地名には箱根山麓の回峰行を想像させるものがある。箱根の山中には古い寺院跡があちこちにある。
天狗様は仏教以前の土俗的信仰に繋がっている。空を飛ぶように速く走る。山梨の藤垈にも誰々のおじいさんは天狗様のお弟子だと言われる人が居た。一日で東京まで行って用事をしてきたと言う話だった。ウルトラマラソンを考えれば不可能ではない。回峰行をしていて脚が達者だったのだろう。
何故走ることが修行になるかと言えば、走ることになりきれるところにある。山の中を走れば、足下の注意が反射的に必要になる。ひたすら反応するだけになる。考えることの出来ない状況に成ることが意味があるのではないだろうか。
それくらい人間は下手な考えにのめり込んでいる。考える葦とはよく言ったものだ。人間は考えすぎだ。もの存在である人間に立ち戻ることが修行になる。解脱である。身心脱落とは道元禅師が悟りを開かれたときの言葉である。「参禅は、身心脱落なり 」
只管打坐で身心脱落するのが曹洞禅であるのだろう。確かに崇高なものではあるが、極めて難しい。道元禅師も若い頃は比叡山で回峰修行を見たはずである。やったのかもしれない。ただ座っていて身心脱落しろと言われても、常人には難しい。
そこで出来ることでやってみようというのが、動禅体操である。体操と付けたのは禅に対する遠慮である。動禅ではもっともらし過ぎるからだ。動禅体操は一通りやると60分になった。エアロビックスやビリー隊長のように力を入れた速い動きとは逆の体操である。
こうして朝の動禅体操が続けられているのは間違いなく、コロナの御陰である。毎朝の修業が喜んでできるなど夢のようだ。コロナを考えると言うことは自分の命のことを考えることになる。人間は生まれてきて死んで行く。その現実を受け止めなさいと言うことがコロナであった。
コロナがとくに肺に来る病気である以上肺を鍛えなければならない。コロナに感染したとして、八〇才以上の男性は死亡率はダントツ高い。肺が弱まっているとコロナが致命傷になるのだろう。それなら肺を鍛えようと考えた。コロナの不安で動禅が続いたのだろう。
石垣島に居るときに遣らなかった日はない。初めて一年を過ぎる頃から、生活の基本になった。何しろアトリエの掃除まで毎日するようになった。ここまで来ればコロナが終わっても,動ける間は続けることが出来るだろう。
動禅体操が絵を描くことに役立っているかもしれない。絵に自分をどこまで注ぎ込めるか。絵がどこまで自分になるか。そういう覚悟ができてきているような気がする。静かにゆっくりと心を込めると言うことが、絵でも必要だと感じるようになった。
今回の小田原生活では立禅だけでもやってみようかと思う。立禅は立ったままの禅なのだが、最近立禅にも成るほどというところがある。何でも続けてみるものだ。朝少し早く田んぼに行って、田んぼで動禅体操も悪くないかもしれない。