魂を手の平に載せる

「魂を手の平に載せる。」こんなことを書くのはちょっとおかしな奴だなと思われる。動禅をしながらそういう意識で動いている。特に太極拳から立禅は、手の平の上に脳が移動したような気持ちで動くように努力している。おかしな事と自覚してのことだが、どうもそれから気持ちの一歩前進を感じてきている。もしかしたら、老化現象か。
こうした論理を越えたような考え方は嫌いなのだが、そもそも脳で動いている人間が、無念無想になるという状態が論理を越えているのだから仕方がない。脳に空の状態は無いだろう。脳が反応を停止した状態と言えば脳死状態である。生きていれば脳の活動は続いている。
ボディービルダーが筋肉を鍛える際、鍛える部位の筋肉を意識して、動くと言うことを言っていた。そうしないとその筋肉が大きくなってくれないらしい。意識と肉体はどこかで連携しているのだろう。意識を手の平に移動することは出来る。意識を集中してゆくと脳が手の平にのっているかのように妄想できる。
気の流れを巡らせるとか言われるともうそれだけで嘘くさいものと決めている、にもかかわらずである。手の平に意識を集中している内に、自分の魂を手の平に載せるような感じになったのだ。どういうことだろうという不思議を味わっている。
手の平の感覚に集中して感じられるようにしてみた。手の平の皮膚感覚だけになる。そしてその手の平に球がのっているという感じを味わう。その球を乗せたまま両手を静かに動かす。球を手の平に載せたまま移動させている。載せたと言っても重力とは関係ないから、下向きの手の平にものっている。
こんなことを始めた理由は動禅を、目を閉じて行っていることに始まっている。眼を閉じたまま動く理由は眼を空いていると眼に頼って動いているからだ。眼がバランスをとってしまうからだ。眼を閉じて動くと、身体の動きがよほど安定して動かないと、大きく揺らいでしまう。
体操ではうまく出来ないと言う事がとても大切なことだと感じている。上手くゆくことよりも、上手くゆかないことに自分を深化させる何かがあると考えている。眼を開いてやるより、眼を閉じて行う方が意識の集中が増すと言うことも、大切だと思っている。
眼を使わないで、身体の動きを身体の感じる感覚で、身体の安定した動きを出来るように努力している。その方が体幹が安定してくる。眼を開いてそれができる人は、眼は開いているが、見ていない半眼の状態を確立している人だ。これはすごいことだが、私には出来ない。絵を描いているときはそんな状態。
動禅における半眼は出来ないから、眼を閉じて行いいつか半眼の状態にいたろうと努力をしている。眼を閉じて動くときに、脳の判断で、脳の感覚で当然安定をとろうとする。それを脳が手の平の上に移動して、身体の安定を計ろうとするように、意識をするようにしてみた。もちろん頭の中に脳は残っている。
この辺りから、もう陽名時太極拳を離れたのだろうと思う。正直、太極拳ですら無いのかもしれない。太極拳も中国のものを見ると、もうその面影すらない。ともかく動きが速い。曲芸的動きが取り入れられていて、精神の集中という意味は薄く感じる。
そもそも健康体操というものは自分が幸せに生きるためのものだ。自分にとって良いものは自分にだけ見付けられる。どれほど陽名時太極拳が優れたものであるとしても、私流の動禅が私に合う。私の身体がそう反応している。そのことは100まで生きて、素晴らしい絵を描いて証明したい。
楊先生は大人だと思う。人間力の底知れない力が周囲に発散されていて、別格の人だったと思う。そうした人はたまにはいるが、凡人にはたどり着くことの出来ない、ある種の仙人だと思った。そういう人を見ることが出来たことは幸運だった。
そうした別世界の無念無想の太極拳ができる人の真似をしてもとうてい無理なことだと考えている。真似だけしていているとおかしなことになりかねない。凡人は凡人なりにやれることがある。別格な人の真似をするよりも、凡人流を考えた方が良いという考えに至った。
その昔、座禅が自分には出来ないと考えたことと同じ道である。どうしても無念無想になれない。命がけで座っても出来ない。無念無想がどこにあるのか、やればやるほど自分が情けないものに成るだけだった。これ以上続ければ鬱になると思えた。
禅僧の中に無念無想の領域いると思えた人を見たこともない。自分の傲慢が眼を曇らせたのかもしれない。無念無想で座禅をしている人がいるのかどうかさえわからないままだった。つくずく自分がだめな人間だと自覚して座禅の世界を離れた。
そこで、ちゃちなものでも自分流でやるほか無いというので、たどり着いたのが、目を閉じて行う動禅である。簡単に言えば太極拳の説明から「気」という言葉を取り除いてみた太極拳である。気という言葉を使えば大抵のことの説明がついてしまう。
西洋科学の思考法で気というものを無いことにして説明しようとすると、なかなか難しいことになる。気を丹田に集める。こんな風に言えばなんとなく分かるような気になる。しかし、本当のところ何を丹田に集めるのか。そもそも丹田とはどこなのか。論理を越えていて曖昧模糊としている。
丹田は臍の下の奥辺りらしいがそんな臓器はもちろんない。落ち着く意識の場所と言うことぐらいだろうが。想像の世界の丹田に、想像の世界の気を集める。これでは私には納得が行かないのだ。別段納得などしなくても良いのだが、気を止めたらどういうことになるのかと言うことは考える。
手の平の感覚に意識を集中してゆく。目方のないソフトボールが載っていると考えても良い。ソフトボールよりもドラゴンボールの方がそれらしいかもしれない。自分の脳が載っていると考えてみた。そうしたら手の平に乗っかった脳は何も考える能力がない。反応だけのものに近づく。手の平の脳は思考できない。
手の平の脳は左右に分かれて、あちこちに動く。動きながら身体の動きをつかさどり、安定化を図る。これは気を考えるよりは自分の身体的に納得したようだ。こうして我流インチキ太極拳をやっている。どうせ自分だけのものだ。どんなインチキでも自分のためになれば、人まねよりはいい。
太極拳というものは、動画で見ても一体何なのか分からないものだ。生で見ない限り、太極拳の意味は分かるはずが無い。実は映像に映っているのはほんの一部のものに過ぎない。一部であるからむしろ誤解することになる。映像は危険である。
海竜社判の陽名時八段錦・太極拳にはイラスト画がある。このイラストはすごいものだ。佐藤喜一という方が描かれている。その一つの動きのイラストはその時の動きの力の入り方がよく分かるのだ。この本でなるほどと理解できた形が多い。
魂を手の平に載せたつもりになって動いたために、なぜか動きが安定したのだ。具体的に成果が生まれている。ここが大事だと思う。気持ちの持ちようは大切だ。特に健康で生きるためには気持ちが何より大切である。