報道の衰退は危険だ

   



 日本の報道は批判精神を失っている。客観報道、中立報道というようなごまかしで、調査報道をしなくなった。調査報道をするだけの経済力を失ったと言うこともあるのだろう。調査報道をするような問題意識を持たない記者ばかりになったと言うこともあるのだろう。

 つまり報道の世界は経済と人材で劣化を始めている。人間はまともな、立派な、良い人が増えていると思う。しかし、反骨とか、不屈とか言うような、尋常では無い人は少なくなっているのではないか。本来報道というのはそういうまともでは無いような、批判的な人が関わるべき仕事だ。

 報道の劣化は世界中で一国主義が登場していることと関係しているのだと思う。トランプやペロンが支持される背景が世界に広がりつつある。プーチンやネタニヤフに対して、さらに攻撃をしろと後押しをしているのが、国民なのだ。何かがおかしくなり始めている。

 経済対立が深刻化していることがある。他国を食い潰さなければ、自国の経済の成長が見込めない状況。資本主義が週末に入ったと言うことだろう。競争をして食い潰さなくてはならない対象が、狭まってきて国同士の対立にまで繋がっているのだろう。

 今回の自民党の総裁選挙は、随分報道は熱心だった。つまり当たり障りのないことには、政府から褒められるようなことには実に力が入る。アベ氏がどれほどひどい人であるか。統一教会との関係や、裏金での党内支配。そして安倍のミックスの失敗。報道はまともな報道が出来なかった。

 どれほど総裁選挙に報道が熱心でも直接の国民は、投票権があるわけではない。関係ないと言えば関係ない話だったのだ。だからだとおもうが、選ばれた石破氏は選挙中に語ったことをすべてを簡単に反故にした。それでも報道は当たり前のような態度である。

 つまり、石破氏は選挙公約をしたわけでは無い。国民は自民党内の関係者との話し合いを、漏れ聞いていたことを報道されたと言うことで、責任ある発言など石破氏はしたことはないのだ。石破氏は裏金議員を公認しないと発言したのは、そう発言した方が、自民党関係者の票が集められると考えたからだ。

 国民全体のことなど視野にも入らないわけだ。そこで総裁選挙が終わり国民の方を向いた途端に、衆議院選挙の顔に変ったのだ。石破氏という人間の本質などそもそも無かったのだ。いつも偉そうに発言していたのは、自民党内の反対勢力としての発言に過ぎなかったのだ。

 今回総理大臣になり、守る側になった。その時に全く前提を変えてしまったのだ。そして党内情勢から、裏金議員を公認しないとどうなるかを考えたのだろう。裏金議員が落ちるのは自分とは関係が無い。もし通ればその時には自分の手下になるだろう。

 そして、国会では予算委員会まで開いて、野党と大いに話し合いをすべきと言うのも、党内反対勢力の立場の発言だったのだ。みんながやりたがらないことを言うことが、あのときには有利だったのだ。総理大臣になれば、野党の批判にさらされる話し合いなどしたくも無い。

 巧みな批判を正論ととらえて報道機関は受け止めていた節がある。つまり、石破氏という人間に対する調査報道がなかったのだ。批判勢力であるときの考え方と、主流派になったときの身代わりの早さが石破氏の本質だったのだ。それを見抜いていた報道機関は無かった。

 石破氏の日米安全保障条約に対する考え方。食料安全保障に関する考え方。地方創生に関する考え方。従来の主張はなかったものになったのだ。立場が変れば、人間が変貌する。君子は豹変す、である。昔の発言など気にもとめないところがこの人が、そもそも仲間が出来なかった理由だろう。

 その信頼性のない、批判だけの人間が、たまたま自民党崩壊の危機に瀕して、支持を集めたのだ。あれもだめ、これもだめで、他の8人よりは明かになる問題点はない。つまり最近は自民党の傍流に置かれていたために、自民党崩壊の原因とは距離があったのだ。

 自民党の問題点は、自民党の民主主議にはお金がかかるという奴である。お金をばらまかなければ、選挙が出来ない体制にある。一方で統一教会の力まで借りなければならない動員力の欠落である。結局は企業献金で、汚い選挙をする以外に自民党は維持できない状況なのだ。

 報道はここを明確にしなければならない。ただ、豹変したなどと言うことはどうでも良いのだ。こういう石破氏のような総理大臣では困ると言うことを明確に伝えなくてはならない。そして野党を育てなければならない。野党の能力不足など解説などしている場合ではない。

 どうすれば日本が良くなるかの方角を、各報道機関が自分の考えを持たなければならない。そして、その考えに沿わないものには徹底した調査報道を行い批判を展開すべきだ。そうすれば新聞もテレビも面白くなり、経営も改善されるはずだ。今の報道はあってもなくても大差が無い。

 むしろ今の日本の報道機関などないほうが増しかも知れない。お茶を濁すばかりで、本当の意見がない。例えば、日本の稲作をどうすべきだと考えているかが見え無い。今年の9月のお米が高いと言うことは報道される。その理由も報道される。しかし、今後の稲作との問題点の繋がりが示されているものがない。

 国の安全保障の中でも食糧の確保ほど大切なことはない。ミサイルや戦闘機以上に必要不可欠なものだ。その最も大切な物をどうすべきかに意見がないような。あるいは判断力が無いような報道機関なら、存在する意味が無いだろう。主食のお米をどうすべきかぐらいは、意見を表明しなければならない。

 日本の報道機関は国の基本である農業に対して安易すぎる。それは報道の人間が農業体験がないからだろう。家が農家であったとしても、農作業をしたことは無いはずだ。人間教育から作務が失われた結果だ。身体を動かさなければ食料が出来ないと言う事を分っていないのだ。学校教育に作務を取り戻すことからではないだろうか。

 人間は身体を動かして食料を作る。これは経済の合理性とは関係の無いことだ。人間という動物が社会を作り、よりよい暮らしをする基本的な活動である。この大切な活動を、身体を通して体感する。このことがなければ、政治家など成るべきではないし、報道の仕事などやるべきではない。

 日本は、多分世界も同じことなのだろう。大きな分岐点にある。それはコンピュター革命が起きているからだ。人間がどう生きるべきなのかに向かい合わなければならない。今こそ人類は理想郷を求めて生き方を変えなければならないのではないか。

 ここで失敗すれば、人類世界は地獄の世界に進んで行くことになる。経済ではない価値観を人類は取り戻さなければならない。コンピュターの時代の中で、どう生きるべきなのかを考える。その基本は人を押しのけなくても、自分の生き方を貫けるという世界観ではないだろうか。

 

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