農家が減った後どうするか。

のりさんと石川さんの7番畑
農家は減る。小さな米農家は成り立たない。コメ農家は大型化すべきだ。大型化して独自の販売ルートを持つような、農業企業中心にすべ水田の水田の農地は集約して大型化する必要がある。それがコメの生産コストを下げる一番効率の良い方法である。
日本の企業が生産性が低いということで問題になっている。それは農業も全く同じで、一度世界一の生産性の高い農業になったことから抜けられない。勤勉で、洞察力の高い百姓に支えられた伝統的日本農業は、日本人を作り出したほど地域に根付いた生き方そのものだった。
その完成した世界が変れない成功体験となっている。世界全体で見れば、農業も大型化して企業的経営に変わっている。中国は日本以上に農家の経営規模が小さく、その結果生産性が低い。企業的農家の出現が遅れていることが、中国の農村の貧しさにつながっている。
農家の減少は政府の政策にかかわらず起こる。平均年齢が70歳の分野の仕事である以上、急減は当然起こる。人口減少の上に、肉体労働は嫌われている。大型化された稲作機械農業が登場することは必然である。5年先にはその傾向は顕著化しているはずだ。75歳の平均年齢の産業などありえない。当たり前すぎる結論である。
農家が減少し、農地が集約されていくことは、何もしないでも起こる流れである。今米価が高止まりしている。誰かが行っているのではなく、コメの流通業者にしてみれば、ここで一儲けしようと勝負をかけているともいえる。政府が今の政策を続ける限り、米が足りなくなるのは現実のことなのだ。米価格については次のブログで考えることにしたい。
政府は備蓄米の放出をしないとしていたのは、米価格を高値誘導しようとしたためである。未だに自民党にはそうした農林族の生き残りがいる。所が最近の食料品の値上がりで、さすがに高すぎるという国民の怒りに、我慢できず放出することにした。
しかし、今のところ日銀と同じで口先介入だから、米価は下がらない。本当に下げたいのであれば、一日も早く放出すればいいだけである。なぜ、のろのろしていて、緊急行動しないかといえば、コメ農家や農協がいい顔をしないからだ。
当然のことで農協は小さなコメ農家の保護者なのだ。大規模企業農家は農協とは関係が薄い。自分で脱穀や精米もする。販売ルートも持つものが多い。しかし数としては小さな兼業コメ農家が多い。自民党農林族議員と、農協の良いお客さんでもある。
その小さな兼業コメ農家、あるいは年金コメ農家、あるいはアパート経営コメ農家は、米の販売価格はボーナスのようなもので、それで生計を立てているわけではない。むしろコメの経費赤字分が、税金対策になっている兼業農家も多い。だから、80歳でも儲からないほうがいい農家を続けていられるのだ。
しかし、そうはいってもさすがにこの農業の構造も終末期に来ている。企業農家の拡大は必ず起こる。企業農家は様々な政府の補助金を受けながら、規模拡大を続けている。それは国の安全保障に直結している。基本的な主食の食糧確保ができない。
小さな農家はどんどん減少する。それは地方の消滅に直結する。100人でやっていたことを1人でやることになるのだ。100ヘクタールの経営農家と1ヘクタールの農家では、生産効率がどれほど違うか。生産コストは半減するはずだ。
大規模農家を育てる政府の考えは正しいと思う。同時に大型化できない農地をどうするかも考える必要がある。特に中山間地の水田農業には様々な環境維持能力がある。地方の中山間地に人がいなくなる現実が、何を起こすかは考えておかなければならない。
水田農業は基盤整備が行われている農地と、なにもされていない農地とがある。なにもされていない昔ながらの農地は、自分で水源を確保して、水路の整備、ため池の整備、農道の確保。里山の管理までの、地域の基盤を支えている側面があった。
それが一切なくなった時を想像すると、日本の自然災害はさらに厳しいものになるに違いない。美しい日本が失われるという、耐え難いことにつながる。大規模化は進むべき方角としても、同時の日本の自然や里地里山を管理維持する新たな仕組みを考える必要がある。
石垣島に来て思うことは、島という社会の単位は、日本の縮図なのだと思う。今ここで書いてきたようなことが、5万人の人口の少し閉じた社会の中で、先行して実験が行われているような気になる。大型化農業の方角。小さな農家の消滅。島全体の総合管理の問題が起きている。
畜産に起きている輸入飼料の高騰から、子牛の価格の下落が起きている。一方で肥育畜産では、牛肉価格が高騰している。一時石垣牛は島内の需要に生産が追いつかないほどだった。サトウキビの補助金農業の限界も見えてきている。
石垣の農業の解決策の模索は、日本の農業の未来の模索と重なって見えてくる。例えば、自給飼料の畜産農家、特に肥育農家の場合は、痛手が少ないので切り抜けられるかもしれない。やはり石垣の農業は観光に直結する形が重要になるのだ
ろう。
ろう。
農業法人による、稲作の大型農業が何件か出てきている。果たして、人手不足の中どこまで大型化が可能なのだろうか。100ヘクターまで進むだろうか。そして、自給を考える市民の登場。のぼたん農園もその一つであるが、最近、そういう希望の相談をよく聞くようになった
経営ができる稲作大型農家と、経営が関係のない市民的自給非農家に二分してゆく。そして小さな農家は、特殊解でのみ生き残るだろうが、全体としては消えざる得ない。石垣島で起きていることは日本全体に当てはまることだろう。
日本ではアベ政権があまりに農業政策に無知で、無策に過ぎた。農業を輸出産業にしようとして、主食の稲作を軽視した。その結果だいぶ危ういところに今ある。大規模化が遅れた。機械化も遅れた。農業者数も激減した。農業の生産性が、世界で起きている革新に追いつけない状況になった。
その結果、地方の社会は維持できないことになった。一次産業の生産性の低さ、特に主食である稲作の生産性が低すぎるのだ。確かに1ヘクタール以下の小さな農家は一年に1か月働けば、稲作農家は可能だといわれている。いわば内職状態ののままなのだ。生産性云々の埒外である。
しかし一方で、中山間地の基盤整備されていない農家は、放棄してゆく稲作の基盤の維持で、限界にきている。そうした場所から農家はやめてゆく。それは大規模化してゆく農家にとって、対象外の農地なのだ。それを維持することが環境維持に重要だとしたらどうすればいいかである。
経営に関係のない、非農家の市民が楽しみで自給農業を行うほかない。1万円で120キロのお米が手に入る共同自給である。この市民自給と地方の行政が協力し合う以外に、中山間地の自然環境の維持はできないだろう。市民自給には行政の協力が不可欠なのだ。
機械の貸出制度が必要である。精米や製粉や加工場の準備までは行政が行うべきだ。おにぎりを作り販売するとしても、個人ですべてを整えることは無駄が多すぎる。機械も個人が持つよりも、共同利用のほうが合理性がある。製粉や加工には専門知識も必要になる。
そして農地利用の法整備も必要になるだろう。非農家利用可能な農地の指定がいる。税金や無償貸出制度の整備がいる。所有者との権利調整なども行政の仕事である。農家を減らしたほうがいいが、大規模農家が利用しない農地の、非農家利用の道を開かなければならない。