動禅と時間
健康維持の為には毎朝の動禅体操だけは欠かせない。最近動禅体操は時間の合図でやっている。以前は背伸び立禅を300まで数えていたのだが、これがいくつまで数えていたかすぐ分からなくなってしまうのだ。分からないから、又数えてとついつい長くなってしまって困った。
そこでアプリを探してみたら丁度良い太鼓が鳴る合図アプリがあった。太鼓が六分置きになるように調整した。「hinokoto」というアプリだ。このアプリの御陰で数を数えないで動禅が出来るようになった。そうしたら数に気をとられないで具合が良くなった。早くそうすれば良かったと思っている。
そこで、300数える時間を六分ということにした。まず、最初に「スワイショウ」六分でだいたい100往復。スワイショウももう少ししても良いのだが、今は準備体操としてやっているのでこのくらいかと思う。これより少ないとどうも身体の活性化が起きない。
前はイーチと往復しながら数を数えたのだが、それがなくなってスワイショウに集中できるようになった。当たり前の事だったが、数えていたときはそんなものだと思っていた。有り難いことに太鼓の合図が成るだけで、動禅をやるときの心持ちが変化をしてきた。
スワイショウは今に伝わる最も古い体操と言われている。何千年もこの体操だけは残った。確かに身体を回す運動というのは、単純な動きでありながら、精神を酩酊させる目の回る効果があり、宗教の中にも取り入れられている。トルコのメヴラーナ教団の回転ダンスであるセマーはひたすら回り続ける。
回転をして神の世界に入るという宗教は世界にいくつもある。目が回っている内に、瞑想というか陶酔と言ったような身体の状態になる。これが神の世界に入って行くトランス状態と言っても良いのだろう。そうしたことを極力廃した宗教的修行が座禅と考える。
動禅は身体を動かし、禅の心境である空の世界に向かうものだから、両者の中間になるのかも知れない。スワイショウでからだわ振ることだけで、明らかに気持ちが変わる。やる気が出てくる。動禅を始めるときさあ―やるぞと言う日は10回の内2回ぐらいだ。
10回の内5回はやりたくないという気持ちをスワイショウで振り切る。スワイショウだけやればいいと、気持ちを引き立てて始める。ところがスワイショウをやっている内にいつの間にか、では8段錦と言うことになる。いままでスワイショウだけで止めたことはない。
スワイショウは インドのヨガの中から生まれたと想像している。ヨガの流派によっては、やはりスワイショウから始める。それが達磨大師によって、禅の哲学と共に中国に伝えられる。インドのヨガについてはよく分からないが瞑想と言うことが言われる。
瞑想というものと禅とは違う。禅は無念無想で空の状態を求める。瞑想は思いに入り込むというような印象がある。ヨガはまったく知らないので、本当のことは分からない。動禅は瞑想ではない。瞑想もしない。空という状態に心を置こうとしている。
瞑想には心を静かに、自然と一体になるような心境のことなのだろう。「気をそらさずに『今、ここ』に存在することのみを意識する」ということ。具体的には、心を落ち着かせ、過去の苦い出来事や未来の心配事、仕事やプライベートにおける不安といったストレス要因を一切考えず、今の自分にだけ自然と意識が向いている状態 と説明があった。
達磨は1600年前にスワイショウのことを記録しているという。達磨とは別に中国にそもそもあったと言う説もあるようだが、座禅という修行法が達磨大師によって中国に伝えられたとすれば、スワイショウもインドから伝えられたと考えるべきだろう。
ただ達磨大師が伝説的な存在であるとしても、大きな流れでインドから中国に仏教の流れに従い、ヨガの行のようなものが渾然となって入ったと考えることは無理がない。それが老荘思想と総合化されながら、仏教の行に整理されていったのではないかと思われる。
8段錦は太鼓2つで12分である。ただし8段目の背伸び立禅を別にしての7段までである。8段錦は太鼓の合図はあってもなくても同じことだが、背伸び禅が太鼓がなくては出来ない。
太鼓の合図でまず踵落としをする。背伸びからストンと身体を落とす。これを20回行う。これは骨を丈夫にする体操である。最初強く行うと頭まで響くので、最初は軽く行うが、慣れてくればさして響かなくなる。そして背伸び禅に入る。
背伸び禅は揺らがない努力である。これもだんだん慣れれば微動だにしなくなる。それでも心の置き所でふらつく。ふらつきで心の置き所の悪さが分かる。心の集中が深まれば、身体もふらつかなくなる。背伸び禅の良い所はふらつきを無くすための努力に集中できるところである。
数を数えていたことから解放されて、気持ちよく集中が出来、身体のふらつきが減った。これを3回繰り返す。数を数えることから解放されたので、出来れば3回繰り返すのではなく、太鼓3回そのまま背伸び禅が出来るようになった。時間から解放された御陰だ。
最後に太極拳を太鼓2回の12分で行う。ユーチューブなどで行われている太極拳は多くの場合早すぎるとみている。陽名時先生は12分と言われていた。太極拳が動禅の一つであるとすれば、能や琉球舞踊のような動きが良いと思っている。
思いを形に集中させてゆく為の動きはかなりゆっくりなものである。止まるところはぐっと止める必要がある。ゆっくりを意識し過ぎるのも良くないと思っていたが、太鼓の合図で12分がよく分かるようになった。
6分太鼓8で48分で一通りが終わる。そして最後に立禅を良い呼吸で行う。良い呼吸とは自分が考える最も良い呼吸のことだ。これで大丈夫だなと言うところで終わりにする。最後に共同前が出来たことに感謝して黙祷礼拝。
すべて眼を閉じて行っている。太鼓の音だけが聞こえる状態。目は本来であれば半眼。半眼とは目は薄く開いているのだが、視覚の無い状態。これが出来ない。半眼が出来るようになるまで、眼は閉じている。これは背伸び禅を行うときによく分かる。
背伸びをしていてふらつかないためには目を頼りにする。太極拳も同様で、目で身体のふらつきを調整する。眼を閉じることで視覚でないもので、身体のふらつきを調整する。三半規管なのかも知れないが、そういう感覚を呼び覚ますことが出来る。