北京冬期オリンピック
北京冬期オリンピックが終わった。やはりスポーツは素晴らしい。人間の可能性が存分に発揮されていて、見ていて眼を洗われるようだった。良くあれほどのことが出来ると、良くあれほど頑張れると感銘を受けた。こころから楽しませて貰った。
東京オリンピックもコロナ下で行われ、様々な問題点があった。それでも無事開催できて良かったと安堵したのだが、北京オリンピックはさらに見事なコロナ下の運営だった。中国のコロナ対応はすごいものだ。日本の報道はあら探しのような報道姿勢が目立ち見苦しいところがあった。
危惧されていた中国と世界が険悪にならずに、むしろ友好的な気持ちが生まれたように思う。スポーツによる親善が充分に出来た。日本選手も精一杯それぞれに頑張り、素晴らしかった。特に高木美保選手の活躍は心に刻まれ忘れがたいものになった。
それは1000mで金メダルを取ったと言うこともあるが、それ以上に高木選手の歴史を思い出す。最初に中学生で出たオリンピックでて、多くの期待を集めたにもかかわらず惨敗に終わったときからはじまった物語である。人間の生きる素晴らしい姿を感じた。
競技者としての図抜けて強い生き様から教えられるものがあった。あのときの期待感とそして最下位になっての世間からの冷たい対応。そして何年もの選手としての絶望の期間があったはずだ。社会というもの対応の変化を若い頃からしみじみと味わってきたはずだ。
そのどん底から立ち直り不断の努力をして、自分の持てるものをすべて出し尽くせる選手に成長した。その姿こそ人間の修養の究極の姿に見えた。苦難を乗り越えて生まれた強さである。自分の努力などまったく至らないと言うことを、改めて感じた。ここまでやり尽くせる人間がいるのだと感動した。
オリンピックは素晴らしいものであるが、今回は昼間の競技は見ることが出来なかった。昼間はのぼたん農園の作業をやっていた。時差が1時間しか無いことがむしろ不都合だった訳だ。それでも充分堪能させて貰った。今回改めて思ったことは、もうメダル制度は止めた方が良いのでは無いかと言うことだった。
メダルなど無くても十分魅力があるのがオリンピックである。順位というものはあっても良いだろう。しかし、金メダル金メダルとメダルというものは強調のしすぎだと思う。メダル授与など無くても、勝者は充分に賞賛されている。そして、選手自身が勝利することで充分にすでに得るものを得ているはずだ。
メダルなどあるから、かじるような名古屋市長まで現われる。できるだけ静かに讃えようでは無いか。それは出場選手全員に言えることだ。頑張って出場したことが尊いことだ。終われば順位など忘れて良いことだ。まあそうはならないと思うが、少し行き過ぎだと思う。
称えるのはクーベルタンの考えたように、参加した競技者すべてであろう。1番は立派である。それでもう終わっていいのだと思う。全員に参加メダルがあればそれでいいだろう。オリンピックが国威発揚の場になるようでは、むしろ平和の祭典が政治的祭典になる。充分なっているのだろう。ベルリンオリンピックにならなければ良いが。
日本もオリンピックに対して、外交的ボイコットをした一国である。これは恥ずかしい政治選択だ。何もオリンピックに際して、総理大臣が出掛けて行かなければ成らない決まりは無い。選手が行けばそれで充分だろう。オリンピックの尾ひれの方が大きくなりすぎている。
オリンピックはスポーツの祭典であれば、それだけで良い。競技者すべてがもっと大切にされるオリンピックであって欲しい。国という枠組みさえ無くなることが目標のはずだ。敗者も勝者も等しく尊敬される場になって貰いたい。どの国の選手もその国の代表になり、出場していることがすでに並大抵のことでは無い。
確かにスポーツは順位を付けるものである。勝者と敗者があるから見ていても興味が倍増する。しかし競技が終われば、もうそう言うことは別にして、精一杯競技を出来たことを喜ぶべきだろう。争うことは人間の習性のようなものだが、それを乗り越えられるのも人間である。
オリンピックを煽っているのは、商業主義である。IOCというところはオリンピックの興行主として、利益追求にこだわりすぎるように見える。勝者を称えれば称えるほど、盛り上がるという人間の愚かな一面を増長しているのが、商業主義である。
テレビや新聞が無反省にその商業主義に乗っかっている。少しは、敗者になったとしても、その頑張りの姿に注目するとか、とるべき報道の姿勢はあるはずだ。スポーツを芸能にしてしまっている。報道が品格というものを失っているのではないか。
見事な敗者が沢山いた。どれほどの選手であれ、すこしづつ勝てなくなる。小平選手は見事な敗者だったと思う。敗れても臆すること無く平常心を保っていた。そして勝者を称えていた。見事な競技者の姿だ。金メダルを取った前回以上に、敗れた姿のすがすがしい小平選手から学ぶものも大きいものがあった。
限界を超えた修練を積んだ競技者の姿は勝者も敗者も、それは素晴らしいものだ。いつ
もそこから学ばせて貰っている。そして勝者も敗者もやがて競技者としての1線を退き、生きて行くことになる。そのこれからこそ、それぞれの競技者としての修練のあり方が問われる。
もそこから学ばせて貰っている。そして勝者も敗者もやがて競技者としての1線を退き、生きて行くことになる。そのこれからこそ、それぞれの競技者としての修練のあり方が問われる。
例えばドーピングをしてまで勝利するようなことであれば、生涯苦しむはずだ。精一杯の努力をして敗れたのであれば、潔く次の道を努力して行けることだと思う。表面的には勝利者だけがちやほやされる世間であるだろうが、人間が生きて行くという意味では又別なことになる。
翻って自分にはどれだけの努力が出来ているだろうかと思う。精一杯努力をしているか。もっとやれることがあるのではないかと思う。ほどほどの努力で自己満足していないか。とうていオリンピックの選手ほどの努力ができてはいない。
まして、才能など乏しい人間である。自分の絵に到達するためにはまだまだやるべき事があるだろう。もう一度、新たな気持ちで絵に向かいあいたいと思う。努力だけではオリンピック選手と同じくらい頑張りたい。そしていつかもう一段奥にある絵の世界を見てみたい。