絵画とスケッチの違い

   



 雨に濡れたのぼたんの花。心が洗われると言うがこの花には、新鮮でどこか素朴ななものの品格が宿っている。のぼたん農園の中で絵を描き始めて、すこしづつ絵が変化してきているようだ。いつかはこの花にあるようなものを描くことが出来るのだろうか。

 のぼたん農園は建設中だから、土の地肌がむき出しである。剥がされた土の色に影響を受けている。土の色は実に微妙でまだ描くだけの技術が無い。出来ないと言う事は絵にとって問題と言うことでは無く、その難しさに向かい合えると言うことが大切だと思っている。

 目の前の景色を見て描いているわけでは無いのだが、見えている色彩は絵に表われている。見えている風景を直接に描くときも当然ある。それでもせめて風景を背中にして描いている。直接見ないようにして風景を描く。自然というものが余りに良く出来ているので、ついつい目の前にあるものをを画面に写すのが一番だと言うことになる。ただそれは絵画ではないと考えている。

 私絵画は自分の世界観を表すものであり、見ている自然を画面に再現しているものではない。ここは間違いやすい岐路だ。そして極めて重要なことだ。自分の内側のことになると、絵は困難を極める。成果も無い。評判も悪くなる。それが私絵画の覚悟のようなもの。

 いくら自分の世界と似ている自然であれ、ただ写すえらしきものはスケッチであり、絵画とは言えないと考えている。絵画とスケッチとは似て非なるものなのだ。スケッチと絵画は違うと言っても、分かりにくいのかもしれないが。

 スケッチはある場所を瞬時に描きとめる描写のことだ。感覚による反応である。感覚的反応だけでは、その人とはいえない。人体を描く場合で言えば、クロッキーのことだ。そこに作者の反射的感覚は表われるだろうが、そのひとの感性とその人の世界観は領域が違うと考えている。

 いわゆる水彩画と呼ばれるものの場合、スケッチで終わっているものが多い。それは油彩画や日本画を専門にする人が、現場で書き留めてから、本画としての絵画を描く、その準備の下書きのようなものとして、水彩画材料を使うことが多い為と思っている。

 またそうした下書きというか、肩の力を抜いた水彩スケッチ日本画より魅力があることがままある。そのために水彩画というものがスケッチだと認識されている。その結果、水彩画のスケッチというものが、一つのジャンルのように存在する。

 それは水彩画材料が手軽に使えて、現場に持って行き制作するのに便利だからである。多くの場合、それはせいぜい30分ぐらいで描いたものである。水で紙が濡れてゆくから、濡れている内に重ねて描く事ができない。一度塗りで描ける範囲で描くのがスケッチである。あとでせいぜい、アトリエに戻りちょこちょこっと手を加える程度である。それがスケッチだ。

 多くのスケッチはまず鉛筆で下書きというか、当たりを付ける。その上に着色するように、水彩絵の具で色を付ける。鉛筆の線が風景をデッサンされていてる。線描でまず意味の説明はしている。漫画と同じ仕組みである。そこに色彩で説明を加えて行く。

 そもそも自然に線は無い。ないはずの線を使い、ものの意味を明確にするために、鉛筆の説明のための線でとらえる。ここからは海だ。ここからは空だ。これは木だ。これは家だ。説明をしているのが鉛筆線である。そもそも絵画に説明はいらないのに、線描での説明で絵画の方向がそれて行く。

 むしろ鉛筆だけで描く素描は絵画といえる。色彩をなしにして、対象に直面する。それは絵のことだ。色が無いとしても充分絵画としての深度がある。素描が説明の線では無くなり、一つの黒色の表現として使われている素描がある。

 瞬時に描かれた風景スケッチを良しとする水彩画を描く人もいる。水彩絵の具の持つ、紙の白さを生かした明るい透明感が美しいと感じるのだろう。それも水彩絵の具の美しさではある。しかし、水彩画の描法の多様さのそれは入口の一つに過ぎない。絵画としての水彩画はその先の水彩技法に進んで行く。

 さらに水彩画の多様さに踏み込んで行くのは、その最初の淡い薄い水彩画では自分の世界としては、物足りないと感じる人なのだろう。表面性では満足できない人だ。油彩画の人や、日本画の人であれば、自分の世界観を探求する絵画制作は本画の方でやるから、現場での水彩スケッチはあくまで参考と言うことになる。

 水彩画の世界はそのスケッチや、淡彩画と言われるものの奥に、いまだ探求しきれない未開拓な世界が広がっている。やればやるほど水彩画の多様さに驚かされている。水彩画は何でも出来る自由な表現の奥行がある。水彩画は奥に入れば入るほど、その人らしい世界観に迫れる材料ということになる。

 水彩絵の具の紙に薄く着色された美しさが、余りに美しすぎるためにその美しさを乗り越えるのは感性の人には難しい。そのために水彩画が絵画という世界よりも、その手前の淡彩画とか、スケッチの世界に止まることになりがちなのだ。たぶんこんな考え方をしている水彩画を描く人間は少ないことだろう。

 水彩画における制作は、水彩画の多様な描法を踏まえる必要がある。水彩画の表現は多様で奥深いために、3000年も使われていて、いまだやり尽くされているとは言いがたい。それぞれが自分の手法を見つけ出している段階なのだろう。この先私絵画の時代になれば、水彩画の世界はさらに広がって行くに違いない。

 淡彩スケッチと言われるところで止まれば、その通俗的な様相にはまってしまって、その作者の世界観まで深まることが無い。淡彩スケッチが美しいだけにその工芸品的な美意識から抜け出ることが難しい。絵画は美しいとはまた別物なのだ。絵画は総合的なものであり、工芸品では無い。

 絵画は人間を表現するものである。人間は美しいだけの単純なものではない。苦しみも、汚れたところも、悲しみある。生と死を明らかにするのが人間の生き方だと道元禅師は言われた。この人間の本質に迫るためには、水彩画の持つ多様な表現に踏み込む必要がある。

 これはある意味美しさを否定しなければならない、困難さがある。美しいものに惹かれるという気持ちを乗り越えなければならない。どうすれば自分の世界が画面に現われてくるかである。このことをつき詰めるものが私絵画であり、水彩画の本質である。

 水彩画は表層の美しさの奥に、実に多様な思いがけない表現が横たわっている。それは日本画でも、油彩画でも出来ない美しさなのだ。水彩画はいまだその可能性を十二分に発揮されていない。私は水彩材料のあらゆる方法を探求するつもりだ。これぞ水彩画というものに向かって行きたい。

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