アトリエカーは居心地最高
アトリエカーの中に居る時間が一番長いのではないだろうか。家に帰ってきてから、アトリエカーの中で作業をしていたりする。どんどん居心地が良い場所になってきた。小さな部屋が一つ増えたような感じだ。
アトリエカーは左右両側が描けるように窓がある。しかし、実際には進行方向左側だけで描いている。特別なときだけ右側で描くことにして、左側で基本描くように考えを変えた。やってみなければ分からないことだった。
そこで少し家具の配置換えを行った。これで50号までなら、前より楽に描けるようになった。このまま下がり、後ろのドアから外に出れば、ドアを通してアトリエ内の絵を離れて見ることが出来るようになった。どうしても離れてみたくなることもある。
描いている途中、運動で外に出る。スワイショウなどを行い、周囲を散歩する。その時に車の外から、中に置いてある絵を見て時々車の外から見てみるのも必要だと思った。これなら10メートル離れて見ることにも問題が無い。
家具が動いてしまわないように、家具同士の間に木の板を入れて突っ張るようにした。これでびくともしなくなった。このようにテーブルの上に画材を載せたまま移動しても何も動いていなかったぐらい安定した。滑り止めのシートも効果を上げている。
左右に分かれたライティングビューローの間の距離を筆立てで抑えた。この筆立てがつっばり棒の役目をしている。筆を立てる穴の空いた板を上から叩くと、板の幅が開き、左右の家具を強く押すように出来ている。材料は栴檀である。
筆立てには18本の筆が立ててある。いつでも必要な筆が取れるので具合が良い。筆は大きく分けて5種類の使い分けがある。すぐに必要な筆を取って描けるので、淀みが起きないで良い。筆は5,6本は濡らして描いている脇に並べて置く。
ついでのことだが、ここにホルベインの24というコリンスキーの筆が2本あるのだが、これは良い筆だ。どこの筆よりも使いよいので驚いている。もっと買いたいぐらいなのだが、廃版になっているそうだ。筆によって描き味が随分と違う。
この機会なので、現状の筆の使い分けを描けば、色によって筆を変えているのは当然のことだが、むしろ画面に出来る調子を変えるために筆を変えている。大きくは筆触を変える為が大きい。線の太さや、水の濃度を変えるために筆を変える。
同じ筆が2本づつぐらいあるのだが、同じ筆でも色が変われば変える。しかし同じ筆触にしたいこともある。筆は描いているときめまぐるしく変える。以前1本で描いていたことが不思議なくらいである。
ここには細い筆だけが並んでいる。太い10ミリ以上ある筆はもう一つの筆立てに並べてある。大げさで無く、18本ぐらいの筆が無いと安心が出来ない。筆立てにわざわざ立ててあるのは、無くなったらすぐ分かるためである。描いているときには何をやっているか分からないことがある。
もしかしたら筆を放り投げているかもしれない。その日が終わると当たりを片付ける。最後に筆を洗い、良く拭いて筆立てに立てる。このときに18本収まる一安心である。
前に置いてある板は作るときに余った板なのだが、車の傾斜を修整するために椅子の下に置くために使っている。傾斜地にしかアトリエカーを止められないことがある。その時は画板と、椅子だけを水平にして描く。
繪の後ろに紙入れがある。段ボールに紙が挟んである。いつでも次の紙に描けるようにしている。他の絵を描いている最中に、突然次の絵が描きたくなるからである。いつ何時何が何かがひらめくか分からないから、その準備だけは万全にしてある。その意味でも、アトリエカーは完全装備である。
余裕が出来たので、水入れも陶器性のものにした。先日不安定なプラステックの水入れの水をこぼしたので、安定したものに変えた。手にぶつけてこぼすこともこれ成らない。このまま車を移動させても水はこぼれない。
このアトリエカーで良いのは4方向に窓があることだ。そのどの窓にも、遮光カーテンが付けてある。画面に光が当たらないように、調整がきく。室内の明るさも細やかに調整が出来て眼が大分楽である。眼は良くないので、いつまで保つかという不安がある。これで少しはいいのではないか。
見ているというのはとても不思議なことで、将棋の棋士が一番疲れるのが眼だという。それで大抵の棋士が目薬をさしながら将棋を指す。将棋の棋士は肉眼で盤面を見ているわけではない。頭の中にある盤面を見ているはずだ。
それでも眼が疲れるというのだ。頭の中の眼に目薬をさしているはずだ。頭の中の盤面をすっきりとさせて、よくよく見ようというので目薬をさすのだろう。この感覚は絵を描く時の見ることに少し近いと思える。
風景は目の前にある。しかし、それを見ているわけではなく、頭の中の風景を見ている。それで頭の中の眼が疲れると感じる。実際には眼など疲れない。目薬など要らない。はっきり見ることが出来ないのは、この先の打つ手が見えないからだ。
何かあるはずだが、手筋が見えない。手筋が肉眼で見えるはずもないのだが、肉眼の調子が悪いせいで見えないと思い、目薬をさしてはっきり見ようと言うことなのでは無いだろうか。この気分は絵を描いているのと近いようなものだ。
将棋は相手が居て勝ち負けがあるから、勝つためと言うつまらないことを、つまらないことではないと考えて、ひたすら考えるのだろう。繪はどこに行くのかも分からない。なんとなくの方向めがけて進む。描きだしたときに考えたところまで、何とか出来たとして、これが何なのだろうかと。まるで良いのか悪いのかなど分からない世界に入り込む。
たぶんすばらしい絵を描いた人は、何が良い繪なのかを分かった人なのだろう。まだ良い繪とは何かはわからない。何とか分かりたいと半眼で風景を見ているのだろう。いつか分かりたいものだ。