種子法の改正の必要性と問題点

   



 二〇年前、10年ほどかけてササドリという鶏を作出した。その作出した鶏で養鶏をやっていた。自分が作出した鶏なのだから、登録をしておいたほうが良いのではないか、と言う意見を言われる人がいて、当時調べてみた。ところが日本にはササドリを登録する場所も、仕組みも全くないと言うことが分かった。

 ササドリを独占するつもりも、その品種で利益を上げようという気持ちも初めから無く、むしろササドリを使って誰もが養鶏をして欲しいという気持ちだけだった。ササドリを作った理由は、自分のところで生まれた卵で、雛をとって行える、昔のような自給のための鶏の飼い方が本来だと思ったからだ。

 ところが、ひとりでそれを続けると言うことは大変な苦労だった。二系統のササドリを維持して、それを交雑して実用鶏として使うと言うことをしていた。江戸時代であれば、地域で自然とそういうことが行われるけっかになっていて、三重地鶏というような形で、一つの鶏種が自然に出来たのだと思う。

 良く卵を産むよ、おとなしいくて飼いやすいよ、大きくなるよ、何でも食べるよ、丈夫でいつまでも卵を産むよ、それぞれの特徴を聞いて、お互いに鶏を交換したり、卵を交換したりしながら、その地域の地鶏が出来たのだろう。そうして出来た鶏を、誰がどう使おうが問題などまったく無い。

 ところが、今の時代何でも権利、権利と商売の種にしようと言うことになる。商売になるから、新しい品種を作出しようとそもそも金儲けのために4本脚の鶏まで考えることになる。4本脚の鶏は権利だから、金を出さなければ人には使わせないと言うことになる。まあそれが当たり前という時代になってしまった。

 ところが、農業は伝統的なものも残っているから、何で自家採種をやってはいけないのだと言うことが起きてくる。三重地鶏を誰が使ったってかまわないという、牧歌的な考え方が通用しなくなって、土佐ジローは高知の試験場が作ったもので、高知県からは出さないというようなことになる。

 牧歌的な伝統農業と、商業主義的な企業農業の権利意識とが、ない交ぜになっているのが、日本の農業の現状ではないかと思う。2018平昌冬季オリンピックで、日本のカーリング選手のもぐもぐタイムで有名になった話だ。韓国のイチゴは美味しいと食べたイチゴが韓国産の「とちおとめ」だったことで、それが韓国のことだったから問題が起きたのだと思う。

 日本の果物を国際競争力のある農産物として、売り出そうという矢先に、もうすでに韓国では日本より広大にとちおとめを栽培していたわけだ。これは一大事と言うことで、日本の品種を許可無く使うことは出来ないようにしなければ、品種が盗まれるということになった。植物特許のような種苗の登録制の強化というか、実質化が行われるように種苗法を変えようと言うことになった。それまでの種苗法は抑止力は無い。

 洋蘭などでは25年ほど前から、種苗登録が始まり、特に良い花は種苗登録がされ、勝手に増やすことはできないと言うことになっていた。一つづつの花にそうしたタグが付いていた。そうしなければ良い花を作出した努力が、抜け目ない後追いに利益がかすめ取られるという話である。ところが良い花は日本で生まれる時代ではなくなり、台湾が良い花の作出国である。登録制度を作るかどうかより、良い品種を作る力があるかどうかの方が、大きな問題になる。

 今国会に提出されている種苗法の話がよく出てくる。自家採種がしにくくなると言う話である。「現代農業」でも盛んに農家を守るためには自由に自家採種できるようにすべきだと主張が載っている。有機農業研究会(リンク)では緊急アピールが発表されている。有機農家が自家採種できなくなれば致命傷というわけだ。
 
 正直両者の主張も熟読したが、私の理解力では理解できなかった。どんな品種がその対象なのかが分からない。お手上げである。あんな長文のアピールはあるだろうか。農水省の方なら分かるのだろうか。国会議員には無理だろう。

 私の分からないのは農水省の説明を読む限りでは、「昔からの品種は自家採種してもかまわないのです。新しい登録品種は自家採種できなくなります。」ということのようだ。本当にそれだけなのかどうかが、このあたりが問題の要点だ。
 例えば、農の会で使っているサトジマンが自家採種禁止になったとしたらどうだろうか。たぶん困らないはずだ。サトジマンと名乗って販売するわけではない。10年も自家採種した、自分たちのお米になっている。有機農業はそういうもののはずだ。

 農水の説明がどうも揺れ動いているらしい。事前の説明では自家採種していいと行っていた範囲が、今はそれもダメになっているものがあると、現代農業には書いてある。それが何という品種のことなのかは分からないが。

 有機農研のアピールでは、これは最初の一歩で、将来すべての農産物が自家採種禁止になる始まりなのだという主張が背景にあるように読めるが、どうなんだろう。長いし分かりにくい文章なので、是非有機農研のサイトに全文があるのでそれぞれで判断して貰いたい。

 個人的な見解では作ったものは誰でも使って下さい。で良いじゃ無いかと考えている。そうすると中国のように何でもずる賢く使ってしまうと言う話になるが、それが何で行けないのだと思うばかりである。自分がもうけを独占したいから、自分の発明を人に使わせたくないという、けちくさい考えに過ぎない。それは同じ日本人でも、外国の人でも同じである。

 資本主義と言うものは何でも金に換算していやらしいものだ。商業主義が何でもだめにしてしまうと思う。中国のデズニー人形が遊園地で遊んでいて、何が問題なのか。子供が喜んでくれればそれでいいでは無いかと思う。

 アイデアを何でも金儲けの種にするということで良いのかと思う。中国ではモナリザをなどの名画を、模写する村があるとテレビでやっていた。何が悪いのか分からない。模写として販売するのに、誰に著作権料を払えというのだろうか。ダビンチは要らないというに違いない。

 金儲けが出来なければアイデアが出てこないという、商業主義には困ったものだ。新しい品種を作出するためには莫大な費用が居る。だから、その品種は保護されなければならないと言うことなのだ。もし、すぐ剽窃されるのであれば、その種苗会社は新品種の作出の努力が出来なくなる。ということが言われる。

 確かに種苗会社はそうなのだろうが、それなら止めれば良いと思う。金儲けで無ければ努力が出来ないのであれば、止めたら良い。人間はそんな浅はかなものでは無いと思う。負けたって、出し抜かれたって、自給農業であれば関係ない。

 コロナのワクチンは膨大な費用をかけて開発されている。お金が無ければ開発できない。ワクチンで大いに儲けたいから頑張って開発競争である。しかし、お金が無ければワクチンは使えない。裕福な国からワクチンは回って行くのだろう。

 お金で命の重さが決まるということが果たして正しい倫理であろうか。お金が無ければ命を守れないという社会がおかしいのではないか。命のために作られるものまで、お金で考えるのはどうかと思う。感染のひどいところから打てば良いでは無いか。

 そういう世の中だと言えばそれまでのことだが、お金のために絵を描くのでは無いし、お金のためにササドリを作ったわけではない。本を何冊か書いたことも、お金などどうでも言い。繪も人にあげてもいいと思っている。人のためにいくらかでも役立つのであれば、それほど嬉しいことはない。それほどすばらしいことは無いと思う。

 種苗法については、現代農業の説明も難しくて分からない。たぶん、現代農業も有機農研も本当の問題点は理解できていないのだろう。その理解できない原因は、資本主義社会の問題点である。

 自分が資本主義的に生きていながらでは、考えにくい話になる。著作権など一切無くしたら、努力ができなくなると言う、人間の問題では無いか。ここを飛び越えて、説明をしようとするから、説明が困難になる。

 商業主義で農業をやっていながら、種苗法になると急に共産主義者になるからではないだろうか。もし、自由に自家採種をしたいなら、自分の作出したものは誰にでも自由に使わせて上げる人で無ければならない。それが伝統農業である。この辺の自己矛盾が解決できていないのではないだろうか。
 

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