大空詩人永井俊を知っているか。
アーチストと言えば、芸術家のことで私の子供の頃までは絵描きはその代表的な存在であった。ところが、この頃ではアーチストと言えば、歌手を意味することが一般的だろう。その歌手のアーチストがコロナで生活できないと話題になっている。アーチストを名乗るのであれば、生活できないのは当たり前のことだ。何を騒いでいるのだろうか。
儲けるために唄を唄うのであれば、それは職業歌手であってアーチストではない。演劇関係者やオーケストラの人も仕事がないと嘆いている。どうも日本のアーチストは芸術を生計のためにやっているものらしい。ちょっと情けなくないか。音楽は芸術であるのだから、それで食べようと言うことがそもそもおこがましい。
芸術家は食べれようが食べれまいが、やりたいことをやる存在である。その純粋さが尊かったのではないか。オーケストラの演奏家は芸術家ではなく、確かに演奏の職人にすぎないなのか。商業主義の蔓延で、すっかりこのあたりの節度が失われた。純粋に芸術を目指していて、食べれるなら幸運に過ぎない。
芸術を志す誇りがないのだ。自分は御嶽を表現したいのだが、その場がコロナで失われたと嘆いている。当たり前であろう。表現の場は自分で作る物だ。与えられた既成の商業的器の中で、いい気になっていた自分を反省してみることではなかろうか。
ライブハウスがやって行けないとよく報道される。それは本当に残念だと思う。しかし、画廊がやっていけないという報道はまず無い。絵描きなどそれくらい不要不急なのだ。不要不急だから芸術なのだ。悲しむことなど何もない。
1960年頃の三軒茶屋にはマンドリンおじさんという人が居た。マンドリンを弾く伝説の吟遊詩人、永井叔さんである。マンドリンをもって街を訪ねて歩く。自分の作った童謡を歌ってくれるのだ。いくらかのお金をおれいに、というか芸術の生き様にお布施させて貰う。みんなに尊敬されていた。芸術家であったからだ。
その人は最晩年、ガリ版刷りで広告の紙の裏側に印刷した自伝を残した。友人の畠山君のお父さんがいろいろ手伝って出来た物だ。畠山さんの家の奥に永井さんは住んでいた。その本は畠山さんのところにはまだあるはずだ。もう一度読んでみたいものだ。
仲良し、こよしは元気よく、いつも通るよなかよしさん。
ランドセル背負って、おててをつなぎ、いつもとおるよなかよしさん。
畠山さんの家は紙箱屋さんだった。その関係で紙の廃棄物があったので、その紙の裏側に、歌詞と楽譜がガリ版刷りで印刷されている。唄う前にみんなに配った。唄の歌詞と楽譜がガリ版で刷られた紙をくれた。それを見てはハーモニカで吹いたものだ。
マンドリンおじさんを私の両親はとても尊敬していた。存在として大切に感じていた。そのことは子供にもよく伝わっていた。家に来てくれると、すぐに近所の子供達を呼んで、並んで唄を聴かせて貰った。真っ白い髭を生やしたサンタクロースのような人だった。
永井俊さんは表現者の本来の姿である。子供の頃本当の芸術家の姿に接することが出来たのは幸運であった。コロナでライブハウスが閉鎖されて唄う場がない等となんとアマチョロいことを言っているのだ。私はコロナも良いことだとこの点では思っている。商業主義は芸術までだめにしたのだ。
自分の命がどうしてもやりたいと叫ぶことを、やむを得ずやるのが芸術だ。それで暮らせようが暮らせまいが、関係が無い。絵を描くと言うことはそういうことのはずだ。そもそも暮らせないのは当たり前だ。それが本来の生きることに向かい合わせてくれた。
子供の頃、地面に釘で絵を描いたものだ。延々しゃがんで描いていた。蝋石で描いたこともある。描きたいから描いただけである。見せたいからでも、褒められたいからでもない。ただ描きたいから描いていた。あの頃の気持ちに戻って絵を描いている。
音楽家や映画関係者すべて原点からやり直せと言うことだ。与えられたこの機会に本当のやるべきことが何であるのか。お金になるからやっていたのであれば、辞めれば良いだけのことだ。ジミー大西さんは割に合わないので絵は辞めたとはっきりしていた。
絵を描いてきたために、生計を立てることと芸術は関連がないという意識になってしまった。つまり自分の芸術に邁進すると言うことは生計とは縁がないと言うことだ。絵描きの場合、この辺がはっきりしていたので、間違えないで良かった。
例えば、なかにし礼や阿久悠だって、詩人と言えば詩人である。しかし本当の詩人は先ずは生計は立たないのが当たり前だろう。商業詩人と言うものがあるとすれば、詩人の魂は持っていないような気がする。今、窓から朝の風が入ってきた。気持ちが良い。気持ちが変わる。なんと良い物であろうか。この風が詩ではないだろうか。風は見返りを求めず吹いている。
これが扇風機の風や、冷房の冷気ではちょぅと違うのだ。海の匂いや緑の色まで感じさせる風だから、心まで変えてくれる。商業詩人の詩は冷房の冷気のような物だ。熱中症を防いではくれるが、心を解放してくれることはない。
詩人といえばどうしても山頭火や石川啄木や山之口貘や永井叔を思い出す。商業主義の詩人はさすがに気持ち悪い。言葉という原初的で素朴な物を、お金のためにもてあそぶことは詩人の風上に置けない。下流にも居て欲しくない。そういえば、俵万智さんが新宿ホストのコロナ歌集に関わっている。短歌って売れれば良いという物なのか。
コロナで様々な分野の活動が停止した。これでやっと絵描きも対等になった気分だ。みんなが食べれないのならば、それほどひがまないでもすむ。コロナで画廊も閉まっているのでとか取り繕っておけば良い。絵で食べるなどと考えたことも無い。すっきりして良いではないか。
コロナに際して、ブログで絵を公開することにした。「水彩画 日曜展示」である。どう利用して貰っても自由である。欲しい理由がまともな物であれば差し上げても良いぐらいだ。自分なりの表現方法だと思っている。絵を描いて行くためには公開することが必要なので、公開している。
一人で絵は描くものであるが、閉じて描いていると成長がない。そこで始めたのが日曜展示である。全くささやかだが、生きている間は続けてみようと思っている。そんな絵を描く道もこれからはあるのではないだろうか。こんな公開の方法もあるのではないだろうか。
人と会うことが出来ない。美術館や画廊で絵を直接見て貰うことが出来ない。それなら、ウエッブで世界中の人に見て貰う機会を作る。見てくれているのかどうかは知らないが、そのつもりで公開して行く。