イージス・アショアは無人島に配備しろ
中央部の赤い部分が沖縄の土壌の色である。この色はすごいと思う。耕作の難しい土だと思う。この緑の下に、この赤い土が広がっていると思うと、風景は又別に見えてくる。
イージス・アショアとはアメリカ製の迎撃ミサイルのことである。秋田県と山口県に配備して、中国や北朝鮮からのミサイル攻撃を迎え撃つというものである。6000億円の費用だそうだが、本当に迎撃できるなら高いとは言えない。そもそもミサイルをミサイルで撃ち落とせるかと言うことは疑問視されている。銃弾を銃弾で撃ち落とす技術というのは、極めて難しいと言うことだろう。
イージス・アショアはそもそも不完全な物とも言われている。アベ氏がトランプに売りつけられたとされている。初めから、ブースターが市街地落下のおそれは危惧されていたが、トランプに言われて否応なく買わされた政治的判断であったのだろう。それを河野太郎氏は明らかにし、購入を止めた。本当にアベ氏は無能な総理大臣だ。どうせ、イージス・アショアなど発射することはないのだから、どうでもいいと考えているのだろうか。
今回のイージス・アショアの配備中止は、迎撃ミサイルのブースターと呼ばれる第一段ロケットが落下の制御が出来るかである。今まで出来ると自衛隊が説明をしてきて、強引に配備を山口県と秋田県に押しつけてきた。この配備の説明は余りにずさんで、していない調査まで適当に記載されていた。
一方ににイージス艦というものもある。6隻の船に迎撃ミサイルを乗せている。従来は8隻体制だったのだ。しかしイージス艦の維持は乗員負担が大きい。300人必要という。固定基地のイージス・アショアの場合、20人程度で可能と言われている。そして、2カ所の固定基地で日本全土の迎撃ミサイル体制が可能と言われている。再度、新たにイージス・アショアを船に乗せられないかという案も出てきている。
専守防衛という考えに立つ以上迎撃ミサイルは必要な武力と思われる。ただし、はっきりしているのは緊急事態に発射する物である。250キロもあるブースターの落下の制御は不可能に決まっている。これをアメリカの言い分をそのままに自衛隊がごまかして説明していたところに、罪が大きい。落下には風の影響や発射角度方向が影響する。初めから無理とされていたことだ。
秋田県では自衛隊の説明の不備を突いて、反対運動が起きていた。反対運動の科学的な追求が今回の配備中止に繋がった。当然のことである。自衛隊には科学的な思考能力がほとんど無い。販売基のアメリカが言うことを鵜呑みにして、そうだろう程度のことで説明をしていた。自衛隊自身の調査は河野防衛大臣になってから行ったことなのだ。
アメリカが日本に売りたい理由は、北朝鮮の核弾頭を日本通過時点で打ち落として貰いたいという理由も有るのだと思う。もっともなことだ。それなら、きちっとした性能と、欠陥も説明して貰わなくては困る。市街地周辺に配備できるような物ではない。
こんなことになるのは自衛隊が戦後70数年も形式武力として存在したからだ。稲田氏が防衛大臣になるようでは、到底自衛隊を動かすこと等無理なことだ。国全体が、真剣に専守防衛とはどういう物かに向かい合っていないのだ。自衛隊は武力主義に傾き、専守防衛を不可能な物としている。防衛白書を読むと、そうとしか読めない。
攻撃用ミサイルを持たないのが、専守防衛である。だからこそ、迎撃ミサイルは必要である。地上基地の迎撃ミサイルはまず攻撃目標になりやすいだろう。その意味では補足されない潜水艦からの迎撃ミサイルの配備も必要なのだろう。ただし、艦船や潜水艦には大きな人員的負担があると言うことのようだ。それならどうしたら良いのか。
イージス・アショアの無人島配備である。日本近海に無数に存在すると言える、無人島に配備すれば、落下物の問題も緩和される。艦船と違い無人島であれば、人員の負担も少ない。こんな当たり前のことが何故考えられないのだろうか。それには想像できる原因がある。
無人島配備であれば、攻撃されたとしても周辺住民への被害もない。唯一考えられる問題は自衛官が無人島勤務が辛いと言うことぐらいだろう。これは国防に携わる以上やむえないことではなかろうか。交代勤務にして対応して貰う。これも出来ないというのであれば、自衛隊という物がすでに成立しないだろう。
米軍の辺野古基地もそうである。どこかの無人の島に米軍基地を置けばいいだけのことだ。石垣島の自衛隊基地もそうだ。無人島に置けばいいだけのことだ。何故、人家のそばに置きたいと考えるのかが問題だ。大きく言えば、国民に対する嫌がらせである。嫌がらせと言えば、少し誤解もあるかもしれないが。
国民にも負担感を分かち合えと言うことだろう。誰からも見えないような離れ小島におかれて、島流しされていたのでは国防が余りに軽々しい。国民の見えるところで無ければ、国防をしている意思表示ができない。と言う自衛隊の妙な意識だと思う。
確かに長年、無駄な自衛隊という目で見られてきた。その裏返しの地上配備の地域への押しつけなのだろう。自衛隊がどれほど大事な物かを見せつけてやるという意味なのだ。石垣島ではミサイル基地を島で一番大切な神の山於茂登岳に、自衛隊基地を建設している。自衛隊内部にある、自衛隊を甘く見るな、ざまーみろというような意識なのだ。
俺たちを尊重しろ。俺たちをないがしろにしてきた長年の恨みをここで晴らしてやる。自衛隊の存在意義を認めろ。こう言う積年の恨みが、むやみな場所を考えない自衛隊基地建設に繋がっている。誘致の集会に集まる元自衛官の人達の、恨めしそうな、怒りに満ちた目を見るとそういう意識をひしひしと感じた。ある意味自衛隊のないがしろにさせてきたという、ひがんだ意識が爆発しているのだ。
だから、離れ小島のミサイル基地では恨みが晴れない。又こう言う扱いか。と言う怒りが鬱積するのだ。それは国民から疎まれる存在と意識している、自衛隊の現状なのだ。それは国防という物に正面から向かい合ってこなかった政府と国民の責任である。日本の安全保障は何か。国民と共有できるような目線で、正面から考え直す必要がある。
アベ政権であれば、憲法9条を改定し、自衛隊を明記すると主張している。確かに言葉では自衛隊が認知されると言うことになるのかもしれない。ところが、これが自衛隊の認知と言うより、平和主義の専守防衛を終わらせようと言うことなのだ。旧態依然の武力主義では、日本の国力では無理と言うことを考える必要がある。世界の軍事状況は全く変化してしまっている。
攻撃的武力の保持をしたいというのが、アベ政権の本音である。当然原爆の保持まで行かざるえない。北朝鮮の姿を見れば分かるだろう。世界の軍事状況からすれば、そうでなければ自立した武力主義の国防は不可能である。しかし、日本の国力でそういうことは、現実的に無理である。アメリカでさえ、北朝鮮に脅されて、安心はできないと言っている状況なのだ。
世界の武力主義は極限を超えたために、現実には武力の使用できなくなっている。武力を突発的に使うのは狂気の国家だけである。まともな国であれば、中国であれども軍事力の駆使は最終手段である。軍事力の前に経済戦争が始まる。すでに始まっている。先ずはこの経済戦争に備えるのも現代の国防である。
経済戦争への供えがなければ、武力どころではないのだ。食料がたたれれば、武力攻撃以前に国は崩壊する。ウイルスが蔓延して国が滅ぶ可能性もありうる。国防とは極めて総合的な物だ。だから、国の安全保障は国民の理解が必要なのだ。ところが、石垣島自衛隊配備計画でも分かるように、国防は国の専権事項、住民が口を挟むような物ではないと、市長が説明している。
そうした市長の時代錯誤の考え方では到底国の安全保障は成り立たなくなっているのだ。ぜひとも、地域住民も参加できるような国防論議が必要ではないか。秋田の方々はすばらしい結果を残した。地域行政と反対運動が国の専権事項を覆したのだ。石垣島でもやろうではないか。