循環型国家・日本の可能性

   


 いつも絵を描かせていただく小嶺牧場の牛である。絵を描くすぐ下で餌を食べる。餌は一日おきくらいに与えられている。普段は牧場の草を食べている。餌を与えるのは呼べば来るようにするための訓練なのだそうだ。青草よりも配合飼料の方が好きなのだ。人間もスローフードよりもファーストフードが好まれている。

 新自由主義経済と呼ばれた、最悪の競争主義が終わりそうだ。コロナウイルスをきっかけに終わろうとしている。次の時代の可能性が、日本には一番あるのではないかと思う。日本国土には可能性の理由がある。豊かな国土において、自給国家の250年もの歴史がある。

 江戸時代に3000万人規模の閉じた自給循環型社会を作り上げた経験があることだ。その国は文化豊かな平和国家であった。そんな国は世界に前例がない。この貴重な経験を洗い直すことが重要になる。徳川家康という人の政治を研究する必要がある。その国を不当に評価したのが明治帝国主義国家なのだ。

 第2として、日本の可能性は豊かな日本列島と言う自然環境である。四季に恵まれた十分な雨量のある国土だ。土壌の多様さ自然の豊かさにおいては世界屈指である。しかも周囲を海に囲まれた優れた条件は他の地域には見られないものだ。日本の各地域に経済地理的な好条件を作り出している。

 そして第3としては伝統的な文化芸術の充実がある。絵画のことはある程度分かるつもりだが、日本の絵画は世界に遜色のない伝統の蓄積がある。日本のアニメが現代に評価される理由はその平安の絵巻物文化の伝統に根ざしている。類推するに他分野の日本文化も世界に劣るものではないということだ。

 以上の3つの条件からして、日本は方向さえ間違えなければ、次の時代も豊かな平和の国として繁栄するに違いない。ただし、その方角には困難ないくつかの条件がある。まず当面の第1が人口減少を乗り切ること。人口減少を悪いこととして考えるのではなく、受け入れて6000万人くらいで調和する国を目指すことだ。我々団塊の世代がいなくなれば、だいぶすっきりするはずだ。

 人口減少は老人が増えるという点で問題はある。しかし、ロボットが働く時代になれば、労働人口の減少も良い条件にもなる。日本の産業のIT構造改革さえできれば、人口減少の角期を乗り越えれば悪いことではない。

 2つめは人間の暮らしを都市集中から、地方への分散を図ることである。それは危機管理であり、文化の多様性の確保でもある。各地方の個性を尊重しそれぞれの地域の特徴のある生活を作り出すことが可能だ。江戸時代は各藩ごとに文化的経済的独立を保ち、その上に徳川幕府という全体が構成されていたことは参考になる。

 そして3つめが、食糧の自給を目的とした一次産業の充実である。一次産業がない国には未来はない。一次産業が生活の基本にある社会作りをする。さすがに遅れてしまった日本のIT社会化も少しづつは進むであろう。ロボットが働くような社会が来るのだろう。それでも一次産業を社会の基盤にすえた社会を目指さなければ国としての安定はない。

 以上の3条件は大目標である。どれもすぐにできるようなことではない。大きな方角を国民が共有し、そこに希望を見なければならない。現在の日本の低迷は目標の喪失がある。低迷を認めることのできない日本人なのだ。いかに下り坂の中にいるかである。日本人であると言う誇りはそれなりに有るのだと思うのだが、日本人という方角を見失っているのではないだろうか。

 それは国際競争力において、遅れてきたという焦りからであろう。遅れたのではなく、当然の位置に落ち着いてきたと考えるべきだ。日本は早く西欧化をして、工業化社会を作り上げた。そのために大量な優秀で勤勉な労働力が存在した。それが敗戦によって軍事力強化を止めた。そのことが戦後社会の経済的繁栄に繋がったのだ。

 今の日本が進むべき方角は、国際競争に勝ち抜かなければ成立しないような国を抜け出すことである。戦後日本は東洋のスイスを目指そうと言う主張があった。専守防衛に専念し、戦争をしない国である。外国を蹴落とさないでも自立して成立する国である。現時点で目指す国があるとすれば、ドイツだと思う。8000万人が個性的な各地方に分散して豊かに暮らしている。

 製品の優秀さも世界トップレベルである。原発に依存しない国作りを成功させている。ヨーロッパをリードする確かな国である。8000万人で豊かな暮らしができるという日本にとって良い見本である。メルケル首相をみると、さすがに日本とはリーダーの器が違うと思う。

 克服しなければならない問題点の一番は国際競争力の問題である。日本車が優れているから世界で販売できる。しかし、日本車がいつまでも優れているとは言えないと言うことである。日本車よりも優れた車を作り出そうと世界中の国がしているのだ。

 たとえば、次の時代に電気自動車になるのか、水素燃料車になるのかは分からないが、国際競争は常に次の優れたものを作り出したものが優位に立つ。それができるかどうかの基盤は、教育と文化である。教育の方向で重要なことは人間教育である。人間がダメであれば、出来るのは金の亡者である。

 目先の知識を増やすことではなく、自分で考える力を育むことが教育方角である。英語教育を小学校に取り入れる必要など全くない。読書教育の方がはるかに重要だ。よく読んで自分で書いてみる。考える力は英語教育では育つことがない。私はアメリカ嫌いで英語の劣等生であったという事もトラウマであるのだが。

 そして農作業の時間が必要である。農作業は宇宙を知るという事になる。自分の行動と地球とのつながりが実感される。自分の生きるという基本を知ることになる。食という基本を知らなければならない。百姓で育った人が日本の近代化に一番役だったのだ。

 日本車が優れている原因は様々あるだろうが、歴史的に高い教育水準がある。そして日本の文化、芸術的素養が優れていたから良い車を発想できたのだろう。そして、優れた発想を確実に作り出す技術者と労働者が存在した。簡単に壊れない。壊れても確実に修理できる仕組みがある。

 それは車だけでなくどの分野にもそういう競争がある。その新自由主義と言われた競争社会は、競争を激化を招いていった。そして、その競争の結果生じたものが格差社会である。産業における競争能力の高いものが豊になることが当然とされる社会である。

 社会に格差が生じて、階級間の流動が起きないような社会になれば、当然社会は停滞が起こる。すでに日本はこうした弊害が起き始めている。政治家が世襲制という結果になっていることを見れば、未来は危ういと思わざるえない。

 農業においてさえも基礎的な研究よりも、売れる農産物の研究が重要視される。しかし、本来の学問は広い基礎的な裾野の広がりこそ重要である。直接的な今売れる商品の研究よりも、広い厚い研究の裾野からこそ、次の次代を担う研究があるのかもしれない。

 日本は方角さえ謝らなければ、素晴らしい平和国家になれる。それだけの条件がある。コロナウイルスを機会に、未来を再確認すべきではないだろうか。

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