持続可能な社会を考えている。
石垣島では外出自粛が要請されて、10日が経過した。その後の感染者は出ていない。毎日固唾をのんでニュースを見ている。その後受付希望者総数が311名で29検体のPCR検査が行われたが、感染者はいない。心配されたほど感染にひろがりはないことがはっきりしてきた。
行政は厳しい来島自粛を求めているにもかかわらず、3名の患者の行動履歴は公表しない。それが方針なのかもしれないが。そのてんがいくらかの不安を増幅している所ではなかろうか。情報公開は故人のプライバシーの問題もあるが、自粛には正しい情報が必要である。
いつもあまりお客さん集中しない昔からの商店があるのでそこに、卵と、牛乳と、納豆をまとめ買いに行った。残念なことに納豆はなかった。納豆を作らなければならないのかと考えている。石垣島では余り納豆を食べる習慣がないのか。それで昔からこの商店には置かないのかもしれない。
お店にはお客さんは他に1人しかいなかった。レジは若い女性が疲れたような様子で一人だけいた。確かにお店の人は気分が悪くもなるだろう。何で買いに来たんだという怒りが感じられた。食料はそれなりにはあった。野菜なども並んでいたので、この際買い足して置いた。お店があり、食料品が買えると言うことのありがたさだと改めて感じた。
いつでも2週間ぐらい籠城できる食料がないと安心が出来ない。それはどこか外に行けば食料が売られているという前提があればと言うことだ。食料が買えないとしたら、畑を200坪借りなければ安心はない。幸い石垣島は食糧自給可能な島だ。今のところ、観光客が減少した分食料は充分過ぎるくらいあるようだ。
レストランはほとんど閉じているので、市民すべてが食料はスーパーに買いに行くしかない。その割にスーパーがいくらか空いているのはどういうことなのだろうか。いつもの台風時の経験でまとめ買いになれていると言うことなのだろうか。みなさんが2日に一回来ていたところを、1週間に一回にしたとすれば、スーパーはがらんとするだろう。観光客が少ないと言うことも空いている理由なのだろう。
石垣島というある程度閉じられた地域社会に暮らすようになり、改めて持続可能な社会とはどんな社会なのかを考えている。持続可能なというと経済発展のためにどうバランスをとればいいかという視点から語られている。経済発展と言う発想がすでに持続を不可能にする考え方なのではなかろうか。
暮らしに必要なものが満たされた社会では必需品の消費だけでは、経済は停滞である。新しい製品の開発と言っても日本では無理なようだ。再生可能エネルギーの分野に日本が踏み出せなかったという姿を見ると、日本の社会の限界のようなものを感じる。
コロナウイルスの流行で日本が世界の進歩の流れから取り残されていることがわかった。意外なところもあったのだが、PCR検査の体制が感染者の拡大傾向に追いつけていない。検査の実施が滞っており、検査から陽性が確定するまでの期間が1週間と長期化し始めたという。
日本は日本人が考えているよりかなり後退していたのだ。アジア諸国のどこでも出来たことが、日本では出来ないという国になっている。このことに正直に向かい合うことが必要だ。遅れ気味の国になっているという意識改革。アベノミクスは成功しているどころではない。日本は遅れた国になったという意識を持たない限り立ち直ることは出来ないだろう。
より豊かな社会を求めると言うこと自体が持続不可能なことになる。足るを知ることがなければ、社会の持続はできない。例えば日本では人口増加が政策にあげられている。38%の食糧自給率の国が人口増加どころではないだろう。
食料など輸入すればいいだろうと言うことが、いかに国民の生活を軽んじているのかということになる。確かに平常時であれば、輸入すれば食料はえられる。しかし、人間が生きるという原点はものを食べると言うことだ。国家を運営するに当たり、食料は外国から買えばいいという安易さは間違っているだろう。そんな余裕のある考え方は、先進国の考えだ。
工業製品を外国に販売する見返りに、国民生活の基本を売り渡している国。プランテェーション国家が食料を生産せず飢餓に陥ることと同じである。綿花をいくら生産しても食べることは出来ないのだ。自動車がどれだけあっても食べ物には困る。
こんかい、マスクが極端な不足に陥った。石油が1980年頃輸入できなくなった。オイルショックと呼ばれた。それで日本は石油の基地を作り、備蓄を始めた。石油など買えばいいだろうとは誰も言わない。エネルギーが切れたらば、自動車が作れないからだ。
マスクの不足も実は自動車生産が出来なくなったのだ。マスクを輸入に頼る国であれば、備蓄が必要だったわけだ。少なくとも医療関係者のマスクが充分にないなどと言うことはあってはならない。政府の油断である。政府が国の安全保障を軍事力中心に考えてきたことが間違っていた。
世界各国で医療崩壊と言われている。アメリカほど豊かな国でさえ、医療が不足というのだ。しかし、台湾や韓国では医療崩壊などなく乗り切ることが出来た。それは感染防止策が優れていたからだ。アメリカは感染防止の出来ない国である。それは国民性もあるだろうし、極端に貧富の差の生じている階級社会だからだ。
国籍もない不法労働者が感染を広げる。医療にかかることの出来ない貧困層が感染を広げる。アメリカという豊かな社会を支えるためには貧困な下級国民が必要になっている。感染症は貧富の差など超えて広がる。生活水準の格差の大きな社会も持続が難しいと言うことなのだろう。
競争社会の方が持続が難しい。人間の生きる目的が金持ちになるという社会は持続できない。金持ちであると言う意識は貧乏人がいて始めて意識される。誰もが車を持つ社会であれば、車の所有は金持ちの気分ではない。金持ち意識には限界がないから、持続が出来ない。
どこかで社会を安定をさせることが人間の幸せになると言うことだろう。食べるものが不足しがちな社会は持続できない。食べ物を効率的に作ろうとして、化学物質や大型機械や、大量の農薬が必要とされるような収奪的農業であれば、それは持続可能とは言えない。
食料の生産には循環型の農業でなければ永続性がない。農地を永遠に使えるような農業の方式である。化石燃料を大量に必要とするような農業も永続性がない。大きな機械力がなくとも、シャベル一本で自分の食料を作れるような農業は永続性がある。
幸い日本には豊かな国土がある。この土地で自分が耕せば、自力で生きることの可能な国土がある。その原点に戻れば日本は持続可能な国だ。
人間が生きると言うことは確かに食べるだけではない。一生を生き切る充実というものがなければ、永続性がない。真理の探究ではないか。それぞれの人生の深まりをどう作り出せるか。やりたいと思うことを持ち、その探究に生涯を費やせる社会でなければ、永続性があるとは言えない。
人間の豊かさは精神の豊かさである。アメリカでは今ピストルの売れ行きがすさまじいらしい。不安になるとピストルに頼るという社会の精神の疲弊。安心立命のないという社会はいつ崩壊するかわからない社会だろう。
人生の夢を描き、その目標に向かい全力で生きる。そういう社会こそ持続可能な社会である。目標が金儲けで何が悪いというような社会は持続不可能である。健全な倫理観のない社会は持続できない。人間が健全に育つためには倫理が必要である。
人間は他の人のためになることが出来たときに喜びがある。私は確かに絵を描いていれば満足である。しかし、その絵がもしかして人が喜んでくれるものであればその喜びは倍増する。自分のために生きると言うことに、人のためが加わったときに人は本当の力を発揮できる。