石垣島の田んぼを描く理由
良く管理された田んぼほど美しいものはないと思っている。それは人間の手によって作られた自然だからだと考えている。農地で長年働いたからそう感じるようになったにちがいない。絵を描いていて、良い田んぼの美しさは別格だと思えるようになった。
自分が田んぼをやっているうちに、良く管理された田んぼがどういうものか分かるようになったのだ。田んぼの土の状態など、イネの葉の色で判断できるようになった。そういう栽培の監察の目がいつの間にか絵を描く目とつながっていた。
地形に合わせて、水を引き、水を溜める。このことが、その土地の高低や形状に従っていると、地形というものを見事に表現することになる。長い年月をかけ、人の手がこの景色を生み出した。手作業で自然と折り合いを付けた田んぼの見事さは、耕作する人の心意気まで感じさせてくれる。
ところが、障子のますのように区画されてしまった田んぼと言うことになると、少し魅力が薄れてしまう。自然の織りなす全体の調和から見るとどこか不調和になってしまう。機械力が圧倒的になることで、自然の姿から遊離して行く。自然に対して、手入れで折り合いを付けるというような、里山の暮らしがいかに素晴らしいものであったのかを、今は少し離れて感じている。
しかし、田んぼの形状は自然との折り合いそれだけで出来ているものでもない。お隣の人間との折り合いまで表しているのだ。あの区切りの不自然さは、両者のご先祖の仲違いの反映が出ているのかもしれない。あの畦の草刈り波動もおかしいなどという人間味まで感じさせるものなのだ。
そうした世界のすべてを含み込んで田んぼの姿が現われている。春が来る。水を回し始めると田んぼの個性はさらに様々に表現される。一早く水が入れられる田んぼがある。いつまで経っても水の回らない田んぼもある。代掻きが始まれば、どうしてこう言う順番になるのかという家庭の事情まで推察できる。
やはり、田んぼは水でつながっているので、そうは身勝手というわけにも行かない。水の足りない年であれば、それこそ上の田から、足並みをそろえたように代掻きが進む。そこにイネが植えられれば、その植え方にもそれぞれの流儀がある。1本植えもあれば、5本植えもある。機械植えだって様々な表現になる。
どこの地域でも必ず、いつまでも渋っている田んぼはある。どうしたのだろうとみている。今年はやらないのかと思う頃、やっと苗が植えられる。大体にそういう田んぼの苗はどこかその後も小さいものだ。きっと何か事情があったのだろう。
様々な人為と自然との兼ね合いで田んぼは出来ている。この類い希な人間の営みの調和を描いてみたいと思っている。この調和は人間の幸せな時代の遺産なのだと思う。日本中で美しい田んぼは失われつつある。ご先祖様から受け継ぎ、孫子の代に伝えてゆく田んぼ。生き様のような田んぼはもうほとんどなくなるのだろう。
経済の合理性だけを考えれば、コンクリート畦でマス目のような区画である。そして広ければ広いほどいいのだろう。一枚が1ヘクタールもあるような田んぼすらある。こうした田んぼを絵に描きたいとは思えないのだ。
だから、田んぼを描いては居るが、人間の暮らしを描いているとも言える。そういう絵にしたいと思うので中々絵にならない。それは協働する人間の姿でもある。絵というものは私がそう思えば、それが現われてくるのではないかと思って描いてはいるのだが、それが眼前にみているものにすべて表われていると思い写生している。
そもそも田んぼは経済とは別に作られてきた。自分が食べるものを作るということは、経済ではない。命と直結した生きる営みである。自給して生きることができると言うことほど美しいことはない。又これほどすさましいものはない。農地は人間の命とのやりとりが表われている。
だからこの美しさは、実に厳しい美しさでもある。夏の日盛りに田の草取りをやる。やったことのないものには分からないだろう美しさが田んぼには宿っている。田んぼを経済性で見ているものには絶対にみえない美しである。私はこれを描かなければならない役割がある。自分が食べるものであれば、この暑い最中の草取りだって耐えることが出来る。食べ物を作ると言うことは命がけであり、むき出しのことである。
本来の田んぼの絵として、そうした人間の生き様まで描きたいと思うのだ。美しいと言うことを支えているのはひとつではない。まだ石垣の田んぼにはそうした厳しい命が宿っている。私が田んぼを描きたいのは、藁葺きの古民家を描くというような情緒的な世界とはまるで違うのだ。似ているので誤解されるだろうが。
田んぼだけでない。畑だって同じことだ。美しい畑というものがある。庭の畑は透明に透き通るように美しいものだ。美しい畑でとれた野菜の素晴らしさ。いつも描かせて貰っていた、伊豆下田の庭の畑は命がこもっていた。あるときその畑は輝きを突然失った。おばあさんが入院されたと言うことだった。息子さんの方が熱心ではあったのだが、絵が描きたい庭の畑ではなくなってしまった。
おばあさんの後を熱心に管理はされているのだが、やはりどこか違う。むしろ良く出来ているのかもしれないが、畑から発している輝きが違ってしまった。畑も生きているのだと思った。
下田の庭の畑は何度も描いたが、あの光り輝いて居たものを何も理解できないまま、余りに美しいので描いた。今ならばもう少し描けるかもしれないとも思うが、もうあの畑は下田に行ってもない。石垣島でもそういう畑を探しては居るのだが、まだであっていない。
石垣で描いている田んぼの輝きも今しかないものなのだろう。それに向かい合う自分が、どこまでそうした田んぼの中に宿っているものを描く事ができる人間であるかなのだろう。少なくとも自分にはみえているきがしているのだから、それを描き留めてみたいものだと思う。
描くそばからこぼれ落ちてしまっている。何故見えているものが描けないのかと思う。せめて見えている何が描けないのかと言うことぐらい分かりたいものだ。そう見えているように描いても、見えているものは描けない。おかしな話になるがそんな感じがしてくる。
残念ながら、今年の田んぼも水が見えなくなり始めている。6葉期から7葉期に入った。水面が見えなくなれば、田んぼは草原のようになってしまう。ますます手の付けようがなくなる。
最後の絵は草原になった田んぼを描いたものだ。真下にある田んぼだけは水面がまだ見える。周囲の亜熱帯の草の勢いを押し返している田んぼ。もう少し描いてみたいところだ。
石垣島の田んぼには残っている。手入れしながら、自然と関わる田んぼの姿がある。これを描き残すことができれば、自分が絵を描き、田んぼをやってきた貝もあったと言うことになる。それが次に自給のための田んぼをやる人の方角にもなるのではないだろうか。ちょっと大げさでちがうか。