台湾 蘇澳(ソウアオ)漁港をやたらに歩く

   



 ソウアオを歩く。やたらに歩いた。いくら歩いても面白くて歩き続けた。次の角まで、その先までと歩いた。別に何があるという訳でもないのだが、蘇澳(ソウアオ)漁港を歩き回った。フィットビット23,612歩。たぶん、過去最高記録である。

 人間が暮らしているという場所である。生活があふれてくる漁港。よくもこんなにも詰め込んだという状態で船がある。当然、出て行けない船がほとんどである。船が重ねておいてあるのかというほどである。船は中型の本格的な漁船である。魚の生臭さと重油の不完全燃焼しているようなにおいが、漁港そのものだ。

 港を取り囲む人家の半分は魚の加工場である。その上に人が住んでいるらしい。半分が観光客向けのお店だ。観光バスがひっきりなしに入ってくる。狭い路地に人の波ができる。お土産屋さんやら、海鮮料理屋さんがごたごたに立て込んでいる。キレイナ街ではないところが実にいい。


 蘇澳に来たのは、日本人部落があったという街だからだ。与那国島や、石垣島とはお隣さんとしてお付き合いしてきた街だ。密貿易の女王ナツコさんも拠点の一つにしたらしい。与那国島に80軒もの飲み屋街があった、戦後のどさくさ時代。

 その昔、港自体を日本政府が建設していた時代がある。天然の良港の中に、掘ったり埋めたりしながら、4本の櫛柄に港を作る。その櫛の歯に人家が埋め尽くした。今はその漁港を建設していた。

 ソウアオ漁港ができてゆく過程にはに石垣や与那国の漁師さんが関係している。当時は日本料理屋さんから、日本旅館まであったらしい。今ではそうした名残はほぼない。台湾の漁法と伝えられている、舳先にのぼり、銛でマグロを取る漁法は実は与那国の漁師さんが伝えたものらしい。今では台湾の南の方に残っている。




 90歳というお爺さんが話しかけてきた。昼間っから少々お酒が入っていらしい。日本語が喋れるぞ。あれの日本語は東京弁だ。ということである。国民学校から、あと2年高等科にもいった。先生は鹿児島の人だった。

 石垣島から来たというと、自分も言ったことがある。小さな島だと思ったのだが、案外に大きいのでびっくりした。人口は4万数千あるから、結構大きいはずだ。あれこれ詳しい。子供が3人医者になったというのが自慢らしく、何度も聞いた。

 日本人がいたころのことを聞いたのだが、よくわからなかった。話したくはないのかもしれない。代わりにか、自分のおじさんは日本陸軍に徴兵され南方で死んだと話してくれた。鹿児島の先生は良い先生だったかと聞いたのだが、これにも返事はなかったが。先生には100万円くらい送りたいというのだ。生きてはいないだろうな。何しろ自分が90歳だからな。



 よく聞いていると、スーアオの人ではないということだ。スーアオには刺身を食べて、酒を飲みに来た。どういう訳なのか、カバンからはヘネシーと見える小瓶を取り出して、お前も飲めというのだが。これはお断りした。失礼かと思ったのだが、何しろ小瓶に残る酒はほとんどなかったのだ。

 おじさんはバスでどこかへ行くということで、バス停まで一緒に歩いた。杖はついているのだが、これが私の歩く速度と変わらない。お前は70か。お前は一人で旅行だ。俺は90だぞ。夫のいない女性3人と友達だ。どういう意味で話しているのかはわからなかった。バスが来たので手を振って別れた。

 

 台湾では放し飼いの犬がいくらでもいる。おとなしく人間と共存している。これこそ人間の暮らしだ。どこかで昼ごはんと思い歩いていたのだが、あまりお腹が減らない。海鮮料理どころではない。港のわきの椅子が並んだだけのコーヒー店があったので、カフェオーレを飲んだ。台湾で3回目のこーひーだが、初めてマシンで挽いたおいしいコーヒーだった。気お付けないとインスタントコーヒーを飲む羽目になる。

 巨大な紙コップで出てきた。隣のお菓子屋で、焼き菓子があったので、買ってきて昼食にした。隣にいたお兄さんがそういうことをしていたのをまねたのだ。ただイスとテーブルのある、外が続いたような店だから、そういうことをしてもOKのようだった。店番はもう一つ愛想のない娘さんが一人でぽつねんとしていた。



 店からは港の雑踏が見えるだけで、海は見えない。海が見えないほど、船で埋まっているのだ。すぐそばに台湾式のお寺がある。熱心に皆さんがお参りをしている。長い線香に火をつけてもらい。何度も何度も頭を下げている。これが老若男女のことなのだ。

 

  そんなことをあれこれ思いながら歩き回っているうちに2万3千612歩もあるいてしまった。このアドの家に琉球とあるが、これはたぶん、台湾の琉球である。台湾を琉球といった時代もある。高校の時の山川の世界史の教科書にはそう書かれていた。間違えだろうと先生に言ったので、よく覚えている。先生が調べてきてくれて、そういう時代もあったということだった。

 結局のところ、蘇澳には日本の痕跡はわからなかった。別にわかりたかったわけでもないのでよい。すごい、港町をぐるぐる歩き回ったということで、大満足である。また来たいと思う。だいぶ様子が分かった。

 泊まったいーりホテルでの朝食では、身体の頑丈なおじさんたちが、黙々とご飯を食べていた。例の中国式の喧嘩の会話がない。服の背中に、描いてあったもので、海軍の軍人さんだとわかる。ホテルの向かいに軍港がある。これは漁港より、北川である。

 軍港の方も歩いてみた。こちらは殺風景で何もないのだが、道路側に妙な水路のようなものが掘られていた。山にはトンネルのような不思議なものがある。よくわからないのだが、ともかく歩いて漁港に向って歩いた。
 露店で中華素材の欠ノ上田んぼでもつくった。あれが売られていた。名前を忘れるが、マコモタケであった。作っている人が売りに来ているようだから、畑もどこかにあるのだろう。ということは田んぼもある。

 バスで行くよりともかく歩くとその街のことが感じられる。絵になる場所である。港の絵が好きな人なら、画題はいくらでもあるだろう。昔水彩連盟の増永先生の絵に台湾のものがあり、譲ってもらったことがあった。増永先生は戦前台湾で勤めていた方だった。


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