美術館での表現の自由について、の誤解
表現の自由展の従軍慰安婦像の展示が禁止された。様々な意見がネットで飛び交っていた。多くの人の意見で抜け落ちていたことは、美術館という場の認識である。表現の自由は、その裏側に表現されない自由もある。
橘玲と言う人がバナナを持ったオバマ元大統領のイラストをネットにアップして、「表現の自由だ」といったらどんなことになるか。バナナを持つオバマ元大統領のイラストは、世界じゅうの黒人を侮辱し、傷つけるから「表現の自由」の範囲には入らないのです。斯う主張している。(週刊プレイボーイ)
ネットや雑誌で表現することと美術館での作品とを同列に論じてはならない。たとえ、人種差別的表現であっても美術館で展示してかまわない。展示には人種差別的な表現があると表示されていた上で、(見たくない人が見ないで済む事が必要。)展示されているのであれば許されることである。それが表現の自由である。正しい正しくないとは問題が違うのである。
橘氏自身が芸術作品の意味を理解していないと言うことに過ぎない。どのような思想の作品であれ、所をわきまえて主張するのであればゆるされる。芸術はやむにやまれぬものであり、社会にとって有為であるとは限らないものなのだ。また社会のことなど考えない作品があることも普通だ。
そうした毒を含むものであるからこそ、芸術は人間の本質に迫れる可能性がある。人間の根源的自由を守る場が美術館である。雑誌と、新聞と、テレビと、ネットではすでに表現の自由の範囲がそれぞれにある。美術館での作品であれば、表現の自由は広がる。
従軍慰安婦像が日本大使館前に置かれているのは許されないことである。大使館をできる限り安全で、平穏な環境にすることは、大使館受け入れ国に課された義務である。そのことはこのブログでも何回か書いた。しかし、表現の不自由展というテーマの展示においては、従軍慰安婦像は許されるのだ。
美術館でその表現を行った作家はその作品への責任という意味で、歴史的な評価を受けることになる。それは、歴史的事実と言うものとは別のことになる。妄想に基づいていようが、正しい歴史認識であろうが、作品の表現として従軍慰安婦に対する思いが表現されているかが問題になる。そこに作品の評価はあるべきなのだ。
作品が単なるプロパガンダであれば、力を持ち得無いであろうし、芸術作品とは言えない。何故かそのことを、問題にする人はまだ見ていない。現代美術の社会的意味にも関わることである。すくなくとも、愛知トリエンナーレが社会を動かしてきたわけでは無い。
それでも権力から独立した美術館が存在すると言うことが、その国の文化を育てることになる。人間と芸術とはそういう関係である。
写真で見た限りだが、立派な作品とは言えない。張りぼてというほどひどくは無いが、従軍慰安婦というものが表現されていない。従軍慰安婦の悲しみのようなものが伝わってこない。説明が無ければ、朝鮮のひとつの少女像にみえるだろう。説明を必要としているところが、作品として不十分である。
それでも徴用工像よりは良いかもしれない。徴用工像は張りぼてに見える。張りぼてであれば、人形であり私は作品には入れたくない。見ないでの批評は良くないことであるが。
現在の社会の問題として、自ら表現の自由を狭めて行く人が多いことがなさけない。名古屋市長はこのトリエンナーレへの補助金の支出を行わないと主張している。税金の使途は美術館にかなりの裁量権を認めるべきだ。芸術作品に見識の無い市長が口を挟めば、文化というものがおかしなことになりかねない。
美術館というものの意味を裁判で問うべきである。美術館が何故必要であるかだ。展示拒否が繰り返されている現実を知って欲しい。何故、政治的な表現が拒否されるのかである。感触でいえば、政治的表現自体を見ることが無くなっている。すでに政治表現をする作家が減少していると思われる。抑止力が働いた結果だ。
このブログでも、政治的な事を書くと必ず、ネトウヨから攻撃がある。そのために、コメントがそのまま掲載される方式をとれなくなった。延々と止めないで、コメント機能をダメにするのだ。そのときにメールアドレスを教えて、直接意見を言ってください。いくらでも対応しますと伝えた。
それから何度もメールが来た。罵詈雑言であったり、脅しや嫌がらせもあった。そこで、すべてのメールを保存して置いて、警察に相談をした。そして、そのことをネトウヨに伝えた。それから、その嫌がらせは無くなった。
ネトウヨは自分の気に入らない意見を封じる目的でやっているのだ。そして、表現の自由には限界があるのだと主張して、表現を狭めて行こうとする勢力がある。それは権力である。名古屋市長はその権力で表現の自由を制限しようとしていることになる。多分そこまでの自覚はなく、お金がもったいないと言うことだろう。
私はここではあえて名前も顔も出して、意見を述べている。その覚悟だからだ。そういう普通の人間もいないと、自由な意見を言えない社会になると考えている。人間は様々なしがらみの中で生きている。それが自主規制になりかねない。子供の務めを考えると、言いたいことも言えない。それすら取り払いたいのだ。
どんな不利益を被るのもかまわない。その辺の何の権力も無い普通に人間として、正しいと思うことを主張し続ける意味があると考えている。私の意見がネットにおいて封じられるような社会にしてはならないと思うからだ。普通の人間も無数にいれば、社会は変わる。
インターネットは自由で民主的な社会を作る手段だと考えている。それは普通の人が、そういう方角を目指して、意見を発信したときである。特別の名前のある人なら、それなりに守られている。守られていない普通の人間がインターネットで意見を発信して、自由度はできる限り広げなければならない。
その意味でネトウヨも人の意見を妨害するのでは無く、自分の意見を表明すればいいだけだ。どれだけひどい意見であろうとも、読まないことができればそれでいい。嫌だと思ったところで、止められるのだから、かなり表現の自由度は広いと思う。違う意見が無数に存在している状態がいいのだと思う。
先日、産経新聞で、「保育園落ちた、日本死ね。」が許されて、何故「韓国いらない。」が許されないのかと書かれていた。この違いが産経の記者には理解できないレベルなのだ。そうだろうと思うが。
前者は保育園をすべて落とされた、当事者の叫びだ。だから、そんな日本は死ななければならないと言う意見として、多くの人の胸を突いたのだ。一方韓国いらないは、週刊誌が自分の雑誌を多く売りたいから、反韓勢力が購入してくれるようにという標語である。
あれから、保育園問題は安倍総理の口先では優先課題ということになった。解決はまだできないでいる。是非とも本気で取り組んで貰いたい。
産経新聞が何を書くのもそれはかまわないが、そうした新聞だという理解が広がっているから、間違って買う人はいない。大抵のことは表現の自由の範囲である。フェイクニュースと言うより、「保育園落ちた、日本死ね。」と「韓国いらない。」が判別できない色眼鏡新聞である。