石垣島の新しい場所で描いている。
描いている場所。中央に田んぼがある。しばらく前までは水が光っていた。
一月前に、新しい写生場所を見つけた。面白い場所である。そこで集中的に描いている。名蔵湾と田んぼと空がよく見えるところだ。以前描いていた場所よりすこし北側の牧場の中である。
全体が昔は国の牧場であったらしい。今は農家の方々が、それぞれに経営しているようだ。入るのは申し訳ないのだが、一応お会いした何人かの方にはお断りして、絵を描くことを了承していただいた。
牧場の中と言っても、道路である。幸いそこは少し広がっていて、大型トラックが通る際も、邪魔にならない。下に見える赤い屋根は別荘地である。遠くに崎枝の小学校のある集落が見える。
ここの牧草地草刈りを昨日やった。75馬力の新しいトラックターだった。その脇に2メートルほど一辺にに刈れる刃がついている。これでぐるぐる回りながら刈った。ここの牧草は種をまくと言うより自然に再生してくるものらしい。芝草の大きいようなものだが、名前は聞きそびれた。
中判全紙、5枚目に描いた絵である。
幸い余り邪魔にならない、場所があったので車を止めて描かせて貰っている。一時間に1台ぐらい車はとおる。日射しの強い場所なので、屋根の上には遮熱シートをかぶせて描いている。風のある場所なので、家にいるよりはだいぶ涼しい。おかげで心地よく描かせて貰っている。
午前中はほぼ毎日通っていた。この場所は最近見つけた。この場所があるのは分かっていたのだが、登り方が見つからなかった。ついにたどり着けたという感じだ。分かってみればそう行くことが難しい場所では無い。何故今までたどり着けなかったのかと思う。
この場所は石垣島のとっておきの場所なので、ここを描くのは最後だと言うことになっていたのかもしれない。ただ、田んぼに水があるときがいい。そうすると8月と2月ごろがいいということになる。田んぼが一番明るい状態の空間が面白い。
f40号。4枚目の繪
車での写生は、雨が降っても問題が無いので、台風の一日を休んだぐらいで続けている。朝になると早くご飯を食べて出かけたくなる。8時前後にはファミマによってカフェラテ2杯を必ず買って行く。
カフェラテはふたのつく保温ボトルに直接入れる。使い捨てカップを貰わないで済む。昼を過ぎても熱いまま飲める。今度サーモスから発売された、蓋付きの保温ボトルだ。水分補給のつもりもある。冷たいものよりは温かいものがいいし、そうなるとやはりコーヒーである。
家で入れるより、美味しいのだ。どうも石垣で美味しいコーヒーに出会えないでいる。取り寄せて買うのもどうかと思う。ファミマでコーヒーを買うことが、なんとなく絵を描く順番にはいっている。
写生場所について、絵の道具を広げる。遮熱シートを屋根に貼る。風景を見ながら、コーヒーを飲む。そして始める。案外に絵だけを見ている。分からなくなると、コーヒーを飲みながら、風景をまた眺めている。
問題はその分からないことが何かと言うことである。結局は繪とは何かと言うことになるのだが。私が何かと言うことしか無い。私のことが今更分からなくなる。かろうじて頼りにするところは、美しいとか。感動していると言うことになるのだろうか。
f40号、3枚目の繪
この場所では、惹きつけられるのは空と海と田んぼの3つの関係である。これがおもしろいのだが、どうにもならないようでもある。空は刻々変わり、好きに描いてくれと言っている。海はゆっくりと変わって行くのだが、空ほどでは無い。水というものの光方を、どのように捉えればいいか試行錯誤している。田んぼはゆっくりと緑になってきた。しかし水が入り光り輝いていた時を描いている。
そら、うみ、たんぼ、どれもそのものを描こうというのでも無い。その存在を描こうと言うよりも、それらが、光に照らされて、渦巻いて、3つが反映し合っている。この関係とのようなものを、画面に表している。そう「のようなもの」。
3つの関係のようなものというのは光の反射の仕方だと思う。一番光り輝いているのが、田んぼである。次が海で、そして空ということになる。空は自分の頭の上にもある。これはいつも意識している。自由度が一番あるのが、空。次が海はどう書いても海。田んぼは意識の中心になるのだが、自由というわけにゆかない。そら、うみ、たんぼ、それぞれの意味は伴ってあるべき場所にあって欲しい。
f40号。2枚目の繪。
このあと少し描いた。この写真の状態より大分ましになった。ましになったと感じるなにかが、多分私が描こうとしている繪なのだと思う。空、海、田んぼ、の3つのつじつまを合わせようとしている。合わせようと煮詰めるのは私の絵画なのだと思う。
水彩画は濡れている間は進められない。そこが好きだと言うことがある。絵を描き継ぐタイミングが重要である。石垣は湿気があるので、乾きが驚くほど遅い。焦って描くとひどいことになるので、ひと通り描いたならば、30分ほど間を空ける。
このときに本を読んでいることが多い。このところ井伏鱒二全集である。ついに、読み始めたのだ。この全集が出たときにすぐ購入した。井伏鱒二の完全な全集は初めてだった。
最初に書いた中盤全紙の繪を少し描き進めてみた。
30分ほど間を置いてまた描き始める。この描き継いで行くことが水彩画では最も重要なことだと思う。しばらく筆を置き、新しい心境で絵に向かう。一度絵から離れて違う気持になること。新鮮な気持に立ち返り、絵を見返す。
この繰り返しで12時になるまで絵を描く。午後も描く日は最近はほぼ無い。その日の力はそこまでで使い尽くした感じがしてしまう。午後はその日描いてきた絵を、アトリエに並べて眺めている。今は目の前に、5枚の絵が並んでいる。外は暗いのだが、絵は昼間のように見えるようにスポットライトが9個ある。何故か午後は繪を眺めるだけで過ぎてしまう。
パソコンの机の椅子から、6メートルほど前に絵を並べる壁がある。ちょうどコーヒーのボトルがテーブルには載っている。このテーブルがパソコンのテーブルである。アルミバックはカメラが入れてあるもの。しっかり乾燥させておかなければカメラもかびてしまう。
5枚並んだ一番右端の絵が、最初に描いた絵だ。これは紙がよい。手すきのファブリアーノの古い紙だ。なぜか一枚目に一番貴重な紙を使ってしまった。あきらめないでもういちど描いてみるつもりだ。空を狭くしている。空の重要性にまだ気づいていない。
次はこの場所を描こうと考えている。問題はイネが大きくなってしまい、水面が見えない。
眺めているときに気づくこともある。あの色が弱いなとか、あそこは違うというような、具体的な事もあるが、大きくは方向の問題である。どこに進んで行くかを見ている。その絵がどの方角に進もうとしているのかを見ている。
5枚の絵を並べてみると、一枚目からすこしづつ動いている。一枚目はやはり何も画面に意図が見えていない。ここで描く絵で何をやるかすら無い。だんだん、空と、海と、田んぼ、の関係を描くのだと、5枚目当たりで意識されてきている。しかし、一枚目の方も、最後にもう一度描いてかなり納得した。
午後眺めながら、翌日の覚悟を決めている。覚悟が決まれば、すぐにもやってみたくなるが、家では描かない。我慢して翌日に持ち越す。家で眺めていた方角が、実際の風景においてどういうことになるかは、また別である。
家では大休止という感じだろう。現場では小休止を繰り返しながら、描き継ぐ。家に戻り、大休止を入れて、また描き継ぐ。絵を描いている気持に、休止というキョウサクを入れるという感じである。キョウサクとは座禅をしているときに肩を樫の棒で打って貰うことだ。
はっと我にかえり気づくと言うことがある。改めに風景を見てみると分かることもある。井伏鱒二の本を読んでいると完全に文章に引き込まれて、その世界に漂う。はっと我に返る。絵を描いていたのだ。そうしてみてみると、前との続きでは無くなる。
5枚の新しい写生地で描いた絵がある。前の絵より、進んでいなければならない。この5枚の違いの中に、自分が進もうとしている方向が出ているはずである。最初の絵では見えていないことが、すこしづつ見え始めていなければならない。
5枚の絵を見ながら、考えている。石垣で今回絵を描けるのは16日までである。9月27日から上野の東京都美術館で21回目の水彩人展がある。9月30日から銀座の一枚の繪で水彩人展がある。10月に入ると小田原での稲刈りがある。石垣に戻るのは10月19日である。
一と月石垣を離れる。沢山の人に会うことになる。みんなの絵を見せてもらうることになる。次に石垣に戻るときに心機一新していればと思う。それにしても、水彩人展の作品。一枚の繪の作品。今描いているものとは大分違う。それでも人から見れば何も変わっているようには見えないのだろうか。これが前進であると思いたい。