コンビニ人間 村田紗耶香を読む
石垣から小田原に来る、飛行機の中でコンビニ人間を読んだ。5日のことだが、まだ感触の異様な感じが残っている。街で危ない人に会った時のような緊張感を感じた。そういう自分を生半可だとは思う。
電車の中でお隣にしゃべり続ける人が座った時の居心地の悪さだ。落ち着かない自分を情けないと思いながら、普通でいられる自分でありたいと思いながら、胸の中のざわざわ感が起きる。
何かを怖れるのかと思うが、かわからない事への違和感。覚悟はあるつもりだが、違うという事への反応が起きてしまう情けなさ。何故違うと困るのか。なぜ自分と同じでなければならないのか。何故、人間は一般的でなければならないのか。
同調圧力。社会的に普通であれという意味。自分が世間を形成しているという事を突き付けられる。それは当然のことなのだが、黙っていることが、追い詰めているという現実。
コンビニ人間は普通である意味が理解できないために、普通であるという手順書に従おうとする。規則は学ばなければならない。教えられなければわからない。教えられなくとも気付くという機能は、誰にでもあるという前提の社会。
普通でないことを嘆く周囲の反応から、普通を学ばなければならないと考えるコンビニ人間。大抵の場合は違和感を抱えたまま、修正が利かないのだろう。修正し対応する意味。
石垣南の島空港の夏の滑走路で読み始めて、成田空港の露寒の中着陸した時読み終わり、解説文を読んでいた。深刻な気持ちを抱えたまま飛行機を降りた。東京駅までバスに乗ったのだが、バスの中でコンビニ人間に考え込まされていた。
例の感触の小説である。例の感触はそのまま残ってしまった。コンビニに行くと再現するのだが、本当のコンビニは全くかけ離れている。特に石垣のファミマはのんびり世間話している人さえいる。後ろに並んだ人がいようが、村の共同市場のような空気がある。コンビニ人間はここでは暮らせないだろうな。
都会のコンビニとは違う。だから、コンビニ人間は都会に出てゆくのだろうか。都会のほっといてくれる空気。紛れ込める空気。違和感を吸収できる都会。つまり、現代社会の疎外。
本物のコンビニにはコンビニ人間には無い手順がある。「温めますか」という、フレーズである。鶏のから揚げを温めますか、が省略されて「温めますか」が書かれていない。温まったら違和感が薄まる。
あのレジの処理の慌ただしい手順の中で、レンジに入れて温めるという過程が入るのだ。現金を払う事さえ短縮しようというシステムの中で、レンジで「温めますか」が入るのだ。私の場合、最初何を温めるのか、一瞬緊張した。
温めますかと、声をかけるのはコンビニ的サービスだと思っている。みんな冷たいのだ。関係は冷え切っているのだ。いやべとべと暖かいのが嫌な社会なのだ。決め台詞の「温めますか」はないよりはある方が空気がゆるむのではないだろうか。人間の介在のシステム化。
温めてもらった方がいいはずなのに、何故か緊張していいですと答えてしまう事がある。しまったと思うが、もう一度、やっぱり温めてくださいという事はできない。人間としてそこにいる訳ではないのだ。温めてくれるという仕組みとしてそこにいるに過ぎない。
だから、コンビニおでんはこの点凄い。おでんという、いかにも家庭的なものが、今時システムに組み込まれている。おでんを購入してみればわかるのだが、案外に戸惑う。戸惑っていると、すぐ出てきて選んでとってくれる。何故かと言うと、メニューにあるからと言って、あのおでん鍋の中には揃っていることは少ないのだ。つくねはないかと、かき回すわけにもいかない。
そして、おでんも温めてくれるのだ。小説にはコンビニ常連のおばあさんが出てくる。温めてくれたおでんを抱えて帰り、半分量の温めてくれたご飯とで夕食なのだと勝手に思う。システムに組み込まれているのは、店員だけではない。おばあさんはここは変わりませんねと、繰り返しつぶやく。社会システムという永続性。
この社会の病巣をコンビニ目線で的確にとらえている。ここがこの小説の斬新なところだ。病巣と言っても、自覚のできない分断社会。機械的システム言葉の「温めますか」を入れて欲しかった。たぶんそういう生ぬるさは著者に入らなかったのだろう。