石垣で描く絵がやっと自分の絵になってきた。
毎日絵を描きにゆく。石垣はこのところ雨が多いのだが、幸い車の中で描いているので、どんな雨でも出かけることができる。石垣島に根を下ろして絵が描けるという事はどれほどありがたいことかと思う。外に描きに行ける間は石垣の風景を描きたいと思う。
一番右の絵が今日一日、雨の中で描いていたもの。
すこしづつ、石垣の風景が自分の絵になる希望が出てきた。絵が描けてきたというわけでは無い。このまま、10年進む方向が見えてきたと言うこと。今まで描いてきた絵を振り切ることがやっとできたのかもしれない。
難しかったのは、擦り込まれた絵から離れると言うことだった。学んで身についた、絵らしきものの感覚をすてるということは今でもできているわけでは無い。身に染まったものを捨てるは新しい場所に移ると言うことが必要だったようだ。いくらかかっても、自分の目で見たものを描くところまでゆきたい。
その意味をもう少し考えれば、子供の頃絵を描くというと、描いた図の真似であった。人の顔であれば、人の顔の図というものをまねて描いた。自分の目で見たものを図にすると言うことはできなかった。風景を見ながら描いていても、人が作り出した絵画から、描き方を引っ張り出していることがほとんどなのだ。
水彩画では緑の色の発色が一番難しい。絵の具の性質という事があるのかもしれない。水彩の緑は隠蔽力が無い。黄色や赤や青であれば、下にすでに色があるとしても、上から絵の具の色をそのまま表現することができる。もちろん工夫は必要である。ところが、緑はそれが相当に難しいのだ。
水彩をやる人の多くが、夏の緑の風景は描かない。油彩画では緑が自由に使えるので、夏の景色はよく描かれると思う。油彩画よりも、水彩という材料は制約が多い。そのために、小学生も使う、入りやすい材料であるにもかかわらず、本当に自由に使いこなせるところにたどり着くのは、なかなか困難なものだと思う。
そのためもあり、いわゆる水彩の技術は英国伝統水彩というような、システムで描くもので終わる。自由に自分の表現技術に進む人が以外に少ない。自由に進むなら、アクリルの方が扱いやすい。水彩は油彩画や日本がの下図に使う範囲から抜け出ない。いわゆるスケッチである。
日本の水彩画の中興の師は中西利雄さんがいる。この人は芸大生の時から、先生がどれほど油彩画を描けと指導してもしたがなわないほど、水彩画にこだわったそうだ。確かに自分の水彩画を描こうとはしている。ところが、今見ると、水彩画らしいと言えるようなものでもない。やはり、先駆者浅井忠さんのフランスで学んだもの方が水彩表現である。
では現代絵画としての水彩の表現と言うことになると、まだ日本には居ない。最近の水彩画の主流は巧みな描写を売りにする商品絵画である。芸術としての個性が無い。。こういう言い方はひんしゅくを買うし、良くないとは思うが、わかりやすく言えば、透明水彩を名乗る人たちだ。
そういう意味では水彩人は透明水彩の団体では無い。水彩人は、水彩の材料で自分の芸術を模索している。たどり着いたと言う人はまだ居ないのかもしれないが、自分の手法で立ち向かおうとしている。その向かい方も、材料に依存すること無く、材料の限界を探るように制作している人が多数存在する。
私もなんとかその一人のつもりである。自分の見ているものに、迫ろうと思っている。見ていると言うものが一筋縄ではゆかない。雲ひとつ見ていても、どのように描けばあの漂い光る雲を描けるのか。しかも雲を描くと言うことで、希望のようなものまでも描きたいときも出てくる。
絵画する眼が見ているのものは、自然界の有り様のようなものだ。場面としての現実の先にある、自然の総合性である。大げさな物言いになるが、自然が垣間見せている、宇宙の真理というようなものになる。こんなものは見えたとしても、描けるものなのかどうか。それでも挑戦しようというのが、私のやりたいことなのだ。文章が大げさになったが。
描こうとしているのは、生まれ育った、自給自足していた藤垈の向昌院での記憶である。そして山北ではじめた自給自足の開墾生活である。体の中にある、生活する場である。そういうもが、自然界の有り様のなかにある。
今はふるさとの夏を描いている。石垣島の夏の風景を描いているのだが、自分の中に宿る、世界観を通した、ふるさとの夏である。それは緑の魔境である。緑という植物に飲み込まれたような景色だ。緑が難しいなどと言っているわけにはゆかない。
水彩画の緑が使えるようになってきたのかもしれない。30年ほぼ毎日やってきて、今になって初めて知る水彩技術がある。それで石垣の風景が描けるような気がしてきた。今、目の前に並んだ絵を見て、これが笹村出でいいのだな、と言うとちょっと待ってくれと言うことになるのだが。